丸山城 (まるやまじょう)
最寄地 鳥取県鳥取市山城町4-31 2022.10.11
丸山城 (まるやまじょう)
最寄地 鳥取県鳥取市山城町4-31 2022.10.11
登城ルート
右の石段より登る
虎口
東側の土塁
銅製の梵鐘
神社
丸山城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆ 比高70m】
【感想】 袋川右岸の標高86mの独立丘陵に築かれている。頂上は南北に細長く、弘法寺(廃寺)の残骸が放置され、土塁が東側に残っている。西側や南側に帯郭が見られた。
弘法寺跡の銅鐘が転がっており、これは昭和の政治家大野伴睦の寄贈によるものだ。
【案内】 県道318号線「山城町」交差点南西にある「サンマート」駐車場が利用できる[マップコード125 672 258*37]。
西側の道路を南西に行き、住宅団地の奥のゲート手前に登り口があり(地図) 、猪に荒らされた急な道が頂上まで続いている。
西麓の市道横には、城将奈佐日本助・鹽冶周防を祀る慰霊碑が建立されている[マップコード125 671 329*75](地図)。
【歴史】 久松山の北西に位置する独立丘陵上に鳥取城の出城として築かれ、天正九年(1581年)の豊臣秀吉の鳥取城攻撃の際には毛利方の重要な拠点となった。
天正九年(1581年)、吉川経家によって築城された(天正年間の初めとする説も存在する)。
山麓西を流れる袋川を利用した物資運搬がなされ、毛利方の重要な武器弾薬・食料の補給基地として重要視された。山麓東に八幡池がある。
秀吉の鳥取城攻めの際には奈佐日本之介、佐々木三郎左衛門らが城将として入城し、兵糧攻めが行われている最中も絶えず物資補給を行ったが、港のある賀露周辺の海上封鎖が強化されたうえ、補給路の中間地点にある雁金山城が宮部継潤によって落城させられ、完全に鳥取城との連絡を絶たれた。
雁金落城後は雁金城番であった塩冶高清も加わり、度々秀吉方の攻撃を退けるなど奮戦したが、同年十月、城内の兵士らの飢えと疲労を考慮した吉川経家が鳥取開城を申し入れ、十月二十四日、丸山城も遂に開城を余儀なくされた。
城を守った奈佐・鹽冶・佐々木氏は吉川経家から再三、助命するよう嘆願されていたが、秀吉の命により、周辺を荒らした海賊・山賊という罪によって自刃させられた。