安威城 (あいじょう)
最寄地 大阪府茨木市安威2丁目12-10 2017.3.25 2017.9.20
安威城 (あいじょう)
最寄地 大阪府茨木市安威2丁目12-10 2017.3.25 2017.9.20
城跡碑・説明板
南側土塁
南東側土塁
南東の外郭
安威城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 安威砦の南方約700mに位置している。細い道が南北に通り、宅地化され遺構はほとんど見当たらない。東と南西に低い土塁が残っている。
【案内】 安威川に架かる府道46号線「長ケ橋北詰」より南へ200m行き右折、約300m行き左折、南へ500mほど行くと、左側「天王文庫」(表記番地)の道路に面し城跡碑、説明板が建てられている[マップコード52 053 454*10]。
安威川西岸の丘陵に築かれた山城で、『大阪府全志』によると東西180m×南北270mの規模があったと思われ、『東摂城址図誌』によると内郭、本丸跡の中心部には「御殿台」という土壇があったとの記載があるが、現在は宅地化されわずかに北東に土塁跡が見受けられる。
【歴史】 古代、この周辺は藍(アイ)の名を擁した中臣藍連の一族がいたようだが、再び歴史にあらわすのは、16世紀初めに摂津国守護細川氏から安威領を安堵された安威右近太夫という人物で、おそらくこの頃に安威弥四郎によって安威城が築城されたという説もある。
桂川原の戦いで細川高国は大敗し、今度は細川晴元についたようであるが、三好長慶の台頭に伴い、安威弥四郎も次第に三好長慶へ属していったようで、江口の戦いでは三好長慶方の武将としてその名が見える。
最後の城主は安威弥四郎の子、安威了佐で豊臣秀吉に仕え信頼も厚かったようで、天正十四年(1586年)に中川清秀が茨木城に移り、安威城は廃城となったと思われていたが、昭和58年7月に安威氏の系譜が発見され、安威了佐の嫡男、安威勝宗が最後の城主となったようで、中川清秀の嫡男、中川秀成が岡藩に転封された時に、安威勝宗も行動をともにし、安威の地からは姿を消す。これ以後廃城となったと思われる。