賀年城 (かねじょう) (勝山城)
最寄地 山口県山口市阿東嘉年下1565 2018.5.7
賀年城 (かねじょう) (勝山城)
最寄地 山口県山口市阿東嘉年下1565 2018.5.7
登城ルート
溜池堤防先を左へ
フエンス手前に沿って登る
堀切
主郭西側
主郭東端・土塁
賀年城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高110m】
【感想】 標高516.3mの勝山に築かれており、中央が高く草が茂っており、西と東に一段下がった郭が連続して連なっている。西側尾根に堀切が見られるものの、防御施設は意外と少ない。ただし周囲は急斜面となっている。
【案内】 国道315号線に面した表記番地北から西に行く林道がある[マップコード410 141 846*88](地図)。毎日新聞の看板のプレハブ小屋が目印となる。
西に約400m行くと溜池堤防手前に駐車できる広さがある。途中の道は轍が深く徒歩の方が良いかも。
堤防を渡って、笹を掻き分け少し行くと防獣フエンスがあり、それに沿って登ってゆくと尾根鞍部に出る。右(東)へ登ってゆくと、堀切があり勝山頂上に城跡がある。
【歴史】 築城年代は鎌倉時代末期とされ詳細は不明だが、少なくても南北朝時代にはあったと思われる。
正中元年(1324年)に吉見氏が築城した三本松城(津和野城)の西方約8.5kmのところに位置し、同城の支城としての役割を果たした。
延元二年(1337年)南朝方の周布兼宗と三隅兼連の軍に攻められた。
文明三年(1471年)、14代大内政弘に対して謀反を起こした大内教幸(道頓)を討伐するため、周防守護代の陶弘護が賀年に攻め込み、賀年城を攻略している(大内道頓の乱)。
天文二十三年(1554年) に陶晴賢討伐を掲げて正頼が挙兵すると、大内義長を総大将に擁する晴賢も出陣する(三本松城の戦い)。賀年城には、波多野滋信・波多野秀信親子と援軍の吉見範弘・下瀬頼定が300余の兵を率いて籠もり、勝山から少し離れた場所には吉賀頼貞親子が100人の手勢を率いて陣取った。
しかし、三月二日に攻め寄せた陶軍は4,500人以上の兵で賀年城を包囲した。籠城軍は、要害堅固な地形を生かして善戦したと伝わるが、家臣の田中次郎兵衛が陶軍に内応したため、翌日には落城し波多野親子、吉見範弘らが討ち死にし、下瀬頼定や吉賀頼貞は敗走した。
天文二十四年(1555年)の厳島の戦いで勝利した毛利元就が周防・長門へ侵攻すると(防長経略)、吉見正頼も呼応して出陣し、賀年城を含め、大内方に奪われていた城を奪回している。