下津井城 (しもついじょう) (県の史跡)
最寄地 岡山県倉敷市下津井吹上2丁目359‐2 2014.9.3
下津井城 (しもついじょう) (県の史跡)
最寄地 岡山県倉敷市下津井吹上2丁目359‐2 2014.9.3
登城ルート(緑線は車道)
西の丸跡
本丸西石垣
本丸跡・城跡碑
天守台
南側石垣・武者走り
正福寺移築城門
下津井城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高30m】
【案内・感想】 瀬戸内海を望む標高89mの丘陵に、宇喜多秀家により築かれた連郭式の山城である。
表記番地の南に瀬戸大橋架橋記念公園駐車場がある[マップコード19 065 624*21](地図)。そこから西に300mほど歩くと、西の丸に着く。
比高約30mの本丸跡は広く、「下津井城跡」の石碑があり、南側に石垣がよく残っている。その西に石垣の残る虎口を経て「西の丸跡広場」があり一段下がった平坦地「馬場跡広場」があり、休憩所が設けられている。西の丸の北に石垣が残る。
本丸跡の南に下がった所に二の丸跡があり、休憩所が設けられている。その東に「三の丸跡広場」があり堀切を挟んで「中の丸広場」があり、瀬戸大橋の架かる瀬戸内海の絶景が望める。
昭和四十三年(1968年)7月19日岡山県指定史跡となっている。
正福寺(倉敷市藤戸町天城560)に城門が移築され、山門として現存している。
【歴史】 文禄年間(1592~96年)に、宇喜多秀家により築城され、城主に浮田家久が入った。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いで、西軍の主力となった秀家は八丈島に流刑となり、宇喜多家は改易となった。
慶長八年(1603年)池田忠継が岡山藩主となり、赤穂城代・池田長政を普請奉行として改修を行い、慶長十二年(1607年)改修が終了した。長政は駿府城からの帰途、病没し完成を見ることはなかった。
慶長十四年(1609年)池田之助の長男で輝政の甥由之が利神城より城代として移り、引き続き3万2千石を与えられた。
慶長十八年(1613年)輝政の死に際し、由之は明石城に移った。寛永九年(1632年)由之の子で、米子城代で3万2千石取りの池田出羽守由成が、岡山藩・鳥取藩国替えに伴い城代となった。
徳川幕府の一国一城令により寛永十六年(1639年)廃城となった。池田由成は岡山藩家老とし倉敷市藤戸町天城に陣屋を構えて移った。