国吉城 (くによしじょう)
最寄地 岡山県高梁市川上町七地2509−2 2021.2.11
国吉城 (くによしじょう)
最寄地 岡山県高梁市川上町七地2509−2 2021.2.11
登城ルート(緑線は車道)
北側・説明板
国吉神社・主郭
南の段郭
2段目東の帯郭
南4段目
国吉城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 高梁市川上町七地にある標高415.3mの城山に築かれており、城山公園となっている。
南東の県道から特徴的な頂上の平坦な山容が見え、北側まで車で簡単に行ける。
堀切などの防御施設は少ないが、主郭に国吉神社が祀られ、北に細長い郭と土塁が残り、南に4段の郭が並んでいる。また東側の薮の中に帯郭が見られた。
【案内】 県道299号線の表記番地手前を右折する[マップコード201 866 890*18]。
そこから北へカーナビには表示されないが約1.6km車道を登って行き、大きく左折する(地図)
南へ200m程行くと、城山公園駐車場に着く。
舗装道を南へ歩くと、城跡入口に説明板が建てられている。南に登ると国吉神社鳥居があり、北尾根と南尾根に郭が配置されている。
【歴史】 『備中府誌』によると、北条家から地頭としてこの地を宛がわれた安藤太郎左衛門元理によって築城された。
戦国時代には備中松山城主・三村氏の支城となり三村政親が城主であった。
毛利氏が宇喜多氏と結んだことで、三村氏は毛利氏と敵対する事となった。
天正二年(1574年)十二月大晦日の夜、毛利氏は三村氏を討伐するため、小早川隆景率いる2万の兵で国吉城に攻め寄せ、三村方は奮戦するも落城し、この後に備中松山城に攻め寄せ三村氏を滅ぼした。
兵乱後、毛利氏家臣の口羽春吉が入城する。 関ヶ原合戦後、毛利氏が萩に移封となると慶長七年(1602年)糟屋武則、安長が居城した。 慶長十六年(1611年)徳川幕府直轄領となり廃城となった。