一宮城 (いちのみやじょう) (県の史跡)
最寄地 徳島県徳島市一宮町西丁237 2014.5.17
一宮城 (いちのみやじょう) (県の史跡)
最寄地 徳島県徳島市一宮町西丁237 2014.5.17
登城ルート(赤は本丸/青は明神丸/緑は才蔵丸)
堀切
才蔵丸跡
明神丸
本丸虎口石垣
本丸跡・祠
本丸石垣
一宮城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高120m】
【案内・感想】 県道21号線南の一宮神社(表記番地)の東、名西旅館との間から標高約144m本丸まで約600m・比高約120mの登山道が整備されている(地図)[マップコード56 130 147*71]。駐車スペースは少ない。
県立東山渓自然公園の一部となっており、麓に御殿居が在った(推定地・一宮町西丁346、寄神社東付近)。
100mほど登ると「神宮寺跡」の碑があり、十二世紀頃の銅製筒経が出土したという。しばらく行くと、「竪堀」が残り、「曲輪」がある。
頂上の約200m手前に「倉庫跡・新正屋敷跡」があり、「湧水」がある。「堀切」を超えると、東に「才蔵丸」(地図)があり西に「門跡」の石段が残っている。
その北に「明神丸」、西に「帯曲輪」、井戸跡のある「本丸」がある。本丸石垣の西に「釜床跡」(炊事場)の石が残っている。
本丸は600㎡ほどありの周囲には石垣が良好に残り、若宮神社が祀られている。
釜床跡の南を150mほど南下すると「水の手丸」があり、その先から北に行くと一宮神社へ至る道がある。才蔵丸・明神丸周辺を南城、本丸周辺を北城と呼ぶ。
昭和二十九年(1954年)8月6日、県の史跡に指定された。
【歴史】 阿波国守護・小笠原長房の四男小笠原長宗が一宮宗成を滅ぼし、1338年(南朝:延元三年、北朝:暦応元年)にこの地に城郭を築いて移り住み、一宮神社の分霊を城内に奉祀した。
その後一宮長宗を称し、一宮氏が代々居城とし、神職も兼ね、南朝方に属した。北朝方の細川頼春は南朝の切り崩しにかかり、1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応三年)大西城の小笠原義盛、白地城の大西氏を降して、一宮城を攻めた。
1350年(南朝:正平五年、北朝:観応元年)に一宮長宗は病死し、子の一宮成宗が城主となった。細川頼春の子頼之の軍は手始めに夷山城(えびすやまじょう)を攻め、野田山城を焼き討ちした。その勢いに乗じ、一宮城に攻め入り麓周辺を焼き討ちにした。
その後両者は度々合戦となったが、1362年(南朝:正平十七年、北朝:貞治元年)細川頼之軍と戦って破れ、和睦を結び、一宮成宗は子の一宮成行に城主を譲り、自身は重清城に隠居した。
一宮成行は北朝に下り、その後細川氏の被官となった。後に阿波国は、細川氏に代わって三好氏が支配した。
三好氏と姻戚関係を結んで、一宮城の12代城主一宮成祐(なりすけ)は、三好家臣団の中でも重要な地位を占めた。しかし、三好長治が阿波国の国主となると、三好家臣団の重鎮であった篠原長房が上桜城の戦いで討ち取られ、家臣団も分裂状態になった。
天正五年(1577年)三月、三好長治は細川真之を討伐するため荒田の戦いで、細川真之に応じて伊沢頼俊、一宮成祐らが兵を挙げた。
三好長治軍が勝瑞城に引き揚げる途中、今切城に入城した三好長治軍を2千の兵で包囲、三日間の攻防戦の上、今切城から脱出した三好長治を追いつめ、同年三月十八日朝、自害させた。
この報に接した三好長治方の矢野国村は、勝瑞城で謀をめぐらし同年四月に伊沢頼俊の陣を攻めて滅ぼした。
一宮成祐は孤立し、香宗我部親泰(長宗我部氏の家臣)を頼り長宗我部元親と誼を通じた。これを受け同年春頃に、長宗我部元親は阿波国に侵攻、大西城を奪取した。
篠原自遁(じとん)はこの状況を打開するため、紀伊国、淡路国の援軍をうけ7千の兵で一宮城を攻城した。一宮成祐は、一宮城を去り焼山寺に引き籠った。
翌天正六年(1578年)正月、十河存保(そごうまさやす)が勝瑞城の城主となり、翌天正七年(1579年)十二月脇城下で十河存保は打撃をうけ敗退、これがきっかけとなり一宮成祐は一宮城に帰城した。
天正八年(1580年)正月、一宮成祐は十河存保を謀殺しようとしたが、察知した十河存保は十河城に逃れ、一宮成祐は念願の勝瑞城の城主となった。
翌天正九年(1581年)七月織田信長の命で十河存保は、長宗我部元親方の西庄城を攻め落とし、勝瑞城を奪還し一宮城も攻めたが、一宮城は安易には落ちず一宮成祐もよく防いだ。同年九月、長宗我部元親の名代が十河存保と面会し、2万余騎を率いて援軍に駆けつけると聞き、十河存保は囲みを解いて退却した。
翌、天正十年(1582)五月、三好康長は高屋城の戦いで織田信長に帰服し、織田氏の四国進出の先軍として阿波国に入国し、十河存保と共に一宮城と夷山城を収めた。
同年六月二日、本能寺の変がおきると三好康長は急ぎ京に上がった。好機ととらえた長宗我部元親は2万3千の兵を挙げて阿波国に侵入し、中富川の戦いで十河存保軍を破り阿波国を平定した。
一宮成祐は中富川の戦いで土佐勢の先鋒として活躍したが、三好康長と一宮成祐が通じていることが長宗我部元親の耳に入った。
同年十一月七日に恩賞の打ち合わせと偽って一宮成祐を夷山城に招いた。一宮成祐は数名の部下を引き連れて夷山城に向ったが、その途中長宗我部元親の家臣畑弥助一隊が一宮成祐を襲い、一旦は逃げたが次第に追い詰められ自害した。
長宗我部元親は、後の憂いを無くすため新開道善、細川真之など阿波国に招き入れた武将をことごとく殺害していった。
その後、長宗我部元親は一宮城に南城を新たに増築し、家臣である谷中澄に南城、江村親俊に旧城である北城の城代とし、多数の守備兵を配置した。
天正十三年(1585年)五月、羽柴秀吉の四国攻めでは主戦場の一つとなった。豊臣秀長が4万の兵で攻城し一宮城は1万の兵でよく守ったが、同年七月下旬開城した。
長宗我部元親が羽柴秀吉に降伏すると、同年九月羽柴秀吉は蜂須賀家政に阿波国を与え、一宮城を居城とした。石垣を巡らした現在の遺構はこの時に大幅改修したものである。
翌天正十四年(1586年)家政は徳島城を築いて移り、家臣である益田宮内が城代となった。
阿波九城の一つとして徳島城の重要な支城に位置づけられていたが、一国一城令によって寛永十五年(1638年)に一宮城は廃城となった。この時石材の一部は徳島城に運ばれ、修築に使われたと言われる。