今城 (いまじょう)
最寄地 宮崎県えびの市大河平1063 2018.12.11
今城 (いまじょう)
最寄地 宮崎県えびの市大河平1063 2018.12.11
登城ルート(緑線は車道)
ここを左へ
突き当りに駐車・入口
曲輪・段差
切岸
今城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 えびの市大河平の川内川に向けて伸びた標高408mの台地先端に築かれた崖端城である。
2段になった広い平坦地が見られる程度で土塁は見られなかった。南にくびれた窪地があるが、堀跡のようだ。
明瞭な遺構が見られず納得いかず後で調べた結果、余湖さんの図によると、川内川を挟んだ対岸の尾根先端に主郭があることが分かった(地図)。
訂正後の今城へは、表記番地の農場[マップコード227 813 884*08] から道があり鉄塔先(地図)まで車で行けるようだ 。
【案内】 青い建物のある表記番地前左折[マップコード227 815 228*87]、農道を約600m行き、二股を左に行き畑の中央を北に行く。左側に堀跡のような窪みがあり、突き当りに駐車する[マップコード227 845 097*78]。杉林の中に2段になった平坦地がある(地図)。
【歴史】 真幸院の領主・北原氏に従属していた大河平氏の城である。
大河平氏は当初、大河平城を居城としていたが、大河平城は堅城ではなかった事から、北原氏没落後に誼を通じた島津義弘により、大河平城と谷を挟んだ南西の丘陵地へ、新たな城を築くよう命じられた。その結果、永禄五年(1562)頃、今城が築かれた。
永禄七年(1564年)五月二十九日、130余名が守る今城を伊東義祐率いる兵千余が攻撃した。
しかし、要害のため攻めあぐね、城主の大河平隆次へ降伏を勧告する方策をとったが、隆次は拒み徹底抗戦した。
これに義祐は、今城の隣の永野城を落とし、捕えた城兵により北側が一番攻めやすいと知ると、堀を埋めつつ城を攻撃した。隆次はやむなく城を打って出て、伊東勢500余名を討ったものの、城兵全員が討ち死にを遂げた。
その後、大河平氏は隆次の姉婿皆越六郎左衛門(後に大河平隆俊)により再興された。