山崎城 (やまさきじょう) (宍粟城・鹿沢城)
所在地 兵庫県宍粟市山崎町鹿沢81 2019.4.12 5.12
山崎城 (やまさきじょう) (宍粟城・鹿沢城)
所在地 兵庫県宍粟市山崎町鹿沢81 2019.4.12 5.12
山崎小学校・表御門跡の石碑
内堀跡・食い違い石垣
紙屋門・土塀・内堀跡
本丸跡碑・山崎歴史民俗資料館
埋御門跡の石垣
山崎城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 本丸一帯は本多公園となり、石垣や土塀、陣屋門が残っている。堀は埋められ、内堀跡の石碑が建てられている。
また山崎歴史民俗資料館裏のプール南に「埋御門跡」の石垣がよく残っている。
【案内】 県道53号線「山崎小学校前」交差点より南に行くと、山崎小学校正門横に「表御門跡」の石碑があり、その西の「宍粟市立図書館」(表記番地)駐車場が利用できる[マップコード304 020 033*74]。
図書館前を南に行くと内堀跡の低地があり、食い違った石垣が残り、土塀と陣屋門(紙屋門)が保存されている。本丸には「鹿澤(ししさわ)城本丸跡」石碑が建てられ、法務局山崎出張所の旧庁舎が移築され、現在は山崎歴史民俗資料館となっている。
西の三の丸は山崎文化会館(山崎町鹿沢88−1)が敷地となり、東の二の丸は山崎小学校(山崎町鹿沢82)敷地となっている。
【歴史】 元和元年(1615年)六月、徳川家康の孫にあたる松平石見守輝澄が宍粟郡3万8千石を与えられ、この地に築城した。
寛永八年(1631年)、赤穂城主であった弟・政綱の死去により佐用郡と赤穂郡の内から3万石を加増され、6万8千石となった。
寛永十五年(1638年)お家騒動により、寛永十七年(1640年)、領地没収となり、代って松平周防守康映(やすてる)が城主となり、宍粟郡・佐用郡の内5万石を賜り、郡名に因んで城の名を宍佐和(ししさわ)城と名付けた。
周防守は城地を整え、城下の繁栄を図ったが、在城12年余りで慶安二年(1649年)石見浜田城に移った。
その後、岡山から池田光政の弟・松平備後守が城主となり、宍粟郡3万石を賜った。
寛文十一年(1671年)恒元が死去し、その子豊前守政周が後を継いだが、延宝五年(1677年)政周が亡くなり養子の数馬が継いだ。
延宝六年(1678年)幼君数馬も江戸で急逝し、嗣子無く断絶した。
延宝七年(1679年)本多肥後守忠英が1万石で城主となった。松平数馬の城地に館を造り以後「宍澤城陣屋」と呼ばれた。
その後、藩主9代を経て明治維新を迎えた。