雨山城 (あめやまじょう)
最寄地 大阪府泉南郡熊取町成合西2230−3 2018.10.21
雨山城 (あめやまじょう)
最寄地 大阪府泉南郡熊取町成合西2230−3 2018.10.21
登城ルート
阪和自動車道下の登り口
土橋・堀切
千畳敷
主郭虎口・切岸
主郭・雨山神社
南下段の井戸
雨山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高200m】
【感想】 熊取町の標高312mの雨山に築かれており、3つの主要郭や井戸、堀切などが残っている。
大池はじめたくさんの池や泉南の市街地を眼下に見下ろせ、遠く大阪湾、関西空港の人工島が眺望できる。
【案内】 府道62号線の信号交差点より南東に行った、奥興業(表記番地)前より500mほど東に行くと阪和自動車道高架下に登り口があり、カーブの広くなった所に駐車できる[マップコード35 749 480*38](地図)。
遊歩道が整備され、途中の8合目付近に馬場跡があり、鳥居の先の尾根に堀切が残っている。
頂上に雨山神社が祀られ、北東下段に千畳敷と呼ばれる広い曲輪がある。南に少し下ると、井戸があり、尾根伝いに南西300mほど行くと土丸城(つちまるじょう)に至る(地図)。
平成二十五年(2013年)、「日根荘遺跡」に土丸・雨山城跡として国の史跡に追加指定された(寺院等16ヶ所)。
【歴史】 雨山城は、正平元年(1346年)、南朝方の楠木氏の一族の橋本正高が築いたとされる。
翌1347年、北朝方の命を受けて、和泉国守護に就任した高師泰は、雨山の麓、熊取荘に隣接する日根野荘の在地武士であった日根野時盛に、この城の固めを命じた。
この後、足利尊氏、足利直義兄弟の骨肉の争いから高師泰は左遷され、南朝方が勢力を盛りかえした結果、正平八年(1353年)再び南朝方の橋本正高の手に渡った。
その後、橋本正高は正平七年(1352年)に北朝方の日根野氏から土丸城を奪取し、城郭を整備すると共に自らの勢力を拡大していったが、城は足利義満の軍の攻撃を受けて落城し、更に、正高自身も天授六年(1380年)高名里で戦死したと伝えられている
元中五年(1388年)には、南朝方の広橋経泰らが兵を起こし、雨山城に籠城したものの、北朝方の山名義理の攻めにより落城した。
その後は和泉山脈の南側にある根来寺の根来寺衆の拠点となった時期もあり、豊臣秀吉の根来・紀州攻めの際には、根来寺衆側が防衛線を岸和田城の南、近木川沿いに設け、在地の武士勢力と根来寺の寺院勢力が合体して、この城にも籠もったとされている。
最終的には元和三年(1617年)に城郭そのものが破却されたと伝えられている。