鵯尾城 (ひよどりおじょう)
最寄地 鳥取県鳥取市玉津39−2 2020.5.6
鵯尾城 (ひよどりおじょう)
最寄地 鳥取県鳥取市玉津39−2 2020.5.6
登城ルート(緑線は車道)
鵯尾神社鳥居・道標
鵯尾神社
馬場
3郭
2郭
主郭
鵯尾城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高230m】
【感想】 鳥取市玉津の標高268mの山頂に主郭があり、北東に2郭(鞍部)、3郭、馬場と配した連郭式の山城となっている。
一方南西に出丸、堀切が残っている。2、3郭、馬場は通路以外草木が多く、広さなどはっきりしない。
遊歩道が整備され、標識も要所にあり安心して登れるが、4ヶ所もあるネットには閉口する。
【案内】 鳥取市玉津の表記番地より入る[マップコード125 398 118*78]。
集落を抜けた所に防獣ネットがあり、そこから南西に3ヶ所のネットを開け閉めして2つの溜池の先に、鵯尾神社鳥居があり、その前に駐車できる[マップコード125 368 573*62](地図)。この間はカーナビに表示されないが、目標にできる。
鳥居から鵯尾神社まで400m、主郭まで1050mの歩行距離で、主郭には城跡標柱が建てられている。
【歴史】 天文年間(1532~55年)に因幡山名氏の家臣・武田国信によって築城されたと伝わる。
国信の子・高信の代には高信の弟・武田又三郎が城主として入った。
武田氏は永禄六年(1563年)三月頃より、守護・山名氏に反抗し、同年十二月には布勢天神山城より山名豊数を退却させるなど因幡国における優位な地位を築いたが、山名豊国・山中幸盛の軍勢に侵入され、永禄十二年(1569年)の芦屋城の戦いでは城主の武田又三郎が討死、一連の争いで大きく勢力を衰退させた。
天正元年(1573年)八月の甑山城における「たのも崩れ」以後、武田高信は山名・尼子軍に包囲された鳥取城から退去し(尼子再興軍による鳥取城の戦い)、失意のうちに鵯尾城に戻った。
しかし、鵯尾城からも天正三年(1575年)三月には山名豊国によって追放され、高信は但馬国の塩冶高清を頼ったが、毛利氏からも見放され、天正四年(1576年)、大義寺にて謀殺された。
武田氏の追放後の鵯尾城は、天正三年五月に毛利方の武将・山田重直が在番していたが、まもなく廃城になったと思われる。