上野屋敷 (公文所跡)
所在地 京都府京都市右京区京北田貫町樫見谷 2019.7.8 2019.9.18
上野屋敷 (公文所跡)
所在地 京都府京都市右京区京北田貫町樫見谷 2019.7.8 2019.9.18
府道横の説明板
説明板
公文所跡
石碑
埜鑑大明神
上野屋敷跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 碑文によると、府道78号線開設工事に先立つ発掘調査で屋敷跡から布目瓦が出土したとあり、屋敷跡は石碑のある一帯の府道となっているようだ。
【案内】 京北田貫町の府道78号線が大きくカーブする所に、「上野屋敷跡」の石碑が建てられている[マップコード344 449 160*53]。
上野屋敷の北東の守護神(弓削旅人)を祀る埜鑑大明神が、その右方に鎮座している。他に、北西に天智大明神(天智天皇)、南東に田原大明神(施基皇子)、南西に浄人大明神(弓削浄人)があるという。
また、府道を挟んで約40m西に「丹波国弓削庄公文所跡」の碑が建てられている。
【歴史】 弓削氏系図には、奈良時代末(790年頃)、弓削道鏡の甥弓削旅人の子・三橋綱麿は御所に参内して忠勤を励んだ功労により、弓削荘を賜り、この付近に居住し一帯を「上野」と名付けたと記されている。
三橋綱麿から10代凡そ430年経た承久年間(1219~22年)、三橋重廉は武士として上皇御所の警護に当たった時、屋敷名を採って上野氏に改姓し、上野氏初代となった。
平安時代以降弓削荘は長講堂及び天龍寺が荘園として領有していたが、公文職に任じられた上野宗家代々は、私邸を公文所として文書や年貢を司った。
室町時代中期の宝徳三年(1451年)邸宅は取り壊され、後年墾田や萱畑に転換したが、公文職は慶長十六年(1611年)まで10代が継承した。
大正六年(1917年)府道開設工事の際、鎌倉時代から室町時代の布目瓦が多数出土したという。『碑文より』