亀山城 (かめやまじょう)
最寄地 山口県長門市東深川1342−2 2018.5.7
亀山城 (かめやまじょう)
最寄地 山口県長門市東深川1342−2 2018.5.7
登城ルート
墓地入口
堀切(南側から)
主郭・櫓台
西側下段の郭
鷲頭弘忠の墓
亀山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【感想】 深川湾を望む、標高40.8mの独立丘陵に築かれており、立派な堀切が竹林に残っている。主郭や西側下段の郭は鬱蒼とした草木の中にあり放置された状態であった。
【案内】 長門簡易裁判所(表記番地)東の駐車場が利用できる。奥の法蓮寺の前の道を東に進み墓地上段の北端から登れる。
東側に堀切があり、その西に主郭、西側下段に郭が竹林や雑木の中に残っている。
また、大寧寺(長門市深川湯本1074)に鷲頭弘忠の墓がある。大寧寺には大内義隆主従の墓や関東管領上杉憲実の墓がある。
【歴史】 嘉吉元年(1441年)大内氏12代当主大内持世が嘉吉の乱で負った傷が元で死亡し、大内教弘が当主を継いだ。
それまでは大内氏と鷲頭氏との仲は良好だったが、鷲頭弘忠と教弘は不仲だったといわれ、文安三年(1446年)四月、守護代の任を解かれた。この間に鷲頭弘忠と父弘為は本拠・深川城の周辺に支城を築き、教弘の攻撃に備えた。
鷲頭弘忠は当初、大内教弘が深川城の北側(深川湾)へ水軍をもって侵攻すると考え、同年に鷲頭弘忠が響灘から近い亀山城を築いて備えた。
しかし、いざ攻撃が始まると、教弘は深川城の南側(現在の美祢市方面)から侵攻し、鷲頭氏家臣の刺賀政頼の居城・堅田城や沢差城などを落城させ、搦手から深川城に迫った。
文安五年(1448年)二月十七日、遂に深川城は陥落し、鷲頭弘忠はじめ息子の弘貞を含む一族郎党全てが殺されたという。
その後、亀山城には日置氏が入城したが、その後は不明である。