藤掛城 (ふじかけじょう) (藤根城)
最寄地 島根県邑智郡邑南町木須田49 2018.5.9
藤掛城 (ふじかけじょう) (藤根城)
最寄地 島根県邑智郡邑南町木須田49 2018.5.9
登城ルート(緑線は車道)
縄張り図
入口の橋・フエンス扉
水田横断箇所の標識
登った尾根の堀切
尾根右側(南)の堀切
本丸・櫓台
本丸北から見た櫓台
長郭
藤掛城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【感想】 出羽(いずは)川右岸の標高358mの山頂に築かれ、櫓台のある細長い本丸や東側下段に長郭と呼ばれる細長い郭などがある。南尾根に2重の堀切がある。北側にも堀切あるようだがこちらは降りづらく見ていない。
当初、廃屋裏に行かず、直進して沢を遡り尾根へ直登したが、だらだらとした自然の山ばかりで、おまけに降り口を間違え通行止めの林道に出てやっと帰り着いた。
そこで、阿須那公民館に赴き事情を話した所、草刈して無くて分かりづらいかもと、資料をコピーして頂いた。そして翌日再度登ってみた。とにかく廃屋周辺が、標識が無く迷うところだ。
【案内】 県道7号線より出羽川を渡ると「藤掛城→」の標識があり、西麓側へ回り込む車道を行くと、表記番地の手前に標識の建てられた橋がある[マップコード](地図)。獣除けフエンス扉のある橋に駐車できる。
そこより南に進み、獣除けフエンス扉を開け閉めして左の廃屋の裏手を進む。右側の山と左の水田跡の間を行くと最上段の水田跡に出、その畦を左に進み沢を渡って谷筋を登る(標識あり)。
「馬の水飲み場跡」の湿地の先に二股の谷があり、左を登ってゆくと堀切に着く。阿須那公民館で頂いた図面を掲載した。
【歴史】 1355年(文和四/正平十年)頃、高梁市の松山城にいた高橋九郎左衛門師光は、足利尊氏から、石見・安芸の両国にまたがる3千貫の領地を与えられ、阿須那の地に来往した。反幕府方へついた石見の国人領主に対する拠点として藤掛山に築城した。
1361年(康安元/正平十六年)師光は嫡男貞光を従え出羽(いずは)弾正左衛門尉実祐を二ツ山城で討ち、出羽氏を君谷へ追放した。
文明二年(1470年)頃、高橋大九郎久光は、毛利氏との間の不利な紛争の解決の為、引退し幼い命千代に家督を譲った。
永正五年(1508年)大内義興に従い、足利義尹を推して京へ責め上った褒賞として福岡県東部の3つの荘や山口県柳井の荘を賜った。最盛期の所領は1万6千貫という。
永正十二年(1515年)高橋民部少輔元光は三吉氏の属城の西入君の本亀城を攻め、楽勝の油断を突かれ討死した。
大内義興は元光の嫡子治部少輔弘厚でなく、孫の大九郎興光継がせることを薦めた。これが高橋氏の家中に内紛を招き、後年、毛利元就は高橋弾正盛光に反間の計をめぐらした。
享禄二年(1529年)頃、鷲影城主盛光は興光の帰城を軍原にて待ち伏せ襲いかかった。興光は奮戦し多くの兵を倒しながら、傍らの巨岩に駆け上がり高橋家の滅亡を予言、慨嘆しながら自刃した。
三日後、興光の首を届けた盛光は毛利方に討たれた。