大溝城 (おおみぞじょう)
所在地 滋賀県高島市勝野1667-14 2016.10.27
大溝城 (おおみぞじょう)
所在地 滋賀県高島市勝野1667-14 2016.10.27
三の丸跡碑
二の丸
本丸石垣・城址碑・説明板
本丸東側石垣
本丸・天守台
大溝城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 本丸跡の石垣がほぼ残っており、北西隅に天守台がある。遠目にもよく目立つ。
二の丸は空き地となっている。三の丸は老人ホーム敷地となっている。
【案内】 湖西線「近江高島駅」の東、県道300号線「近江高島駅口」交差点の東に「陽光の里」があり「大溝城三の丸跡」の石碑が道路に面して建てられている[マップコード263 436 745*22] (地図) 。
そこより南に細い道を行って東に曲がると、空き地の先に本丸石垣が見えてくる。石垣の前に城跡碑、説明板が建てられている。
【歴史】 織田信長が、安土城を築いた頃対岸の高島の地に大溝城が築かれた。
そのころ高島郡一円を委ねられていた新庄(新旭町)城主・磯野員昌(かずまさ)が信長に背いて出奔した為、信長は天正六年(1578年)二月三日、甥(弟信行の長男)織田信澄に与え、大溝城主とした。
信澄は、高島郡の開発・発展に尽力するとともに、信長の側近として、又、織田軍の遊撃軍団の一つとして活躍した。
天正十年(1582年)六月二日、本能寺の変が起きると明智光秀の娘を妻としている信澄に嫌疑がかかった。
信澄の蜂起を恐れた織田信孝(信長の三男)は丹羽長秀と謀って、六月五日、たまたま四国遠征途上にあった信澄を、大阪城内二の丸千貫櫓に攻め込み、信澄を自害に追い込んだ。
大溝城はその後解体され水口岡山城に移され、城下町は、元和五年(1619年)伊勢国上野(三重県河芸町)から入部した分部(わけべ)氏に引き継がれた。