青杉城 (あおすぎがじょう)
最寄地 島根県邑智郡美郷町信喜580 2016.5.19
青杉城 (あおすぎがじょう)
最寄地 島根県邑智郡美郷町信喜580 2016.5.19
登城ルート
ここから登る
北側の段郭
石垣?
腰郭・北側切岸
主郭・標識
青杉城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高420m】
【感想】 今回青杉城跡登頂を試みた。住民の方に訊いたら、安右エ門城の麓を大きく回って南西に行き沢を越えて登る道があったそうだが、現在は崖崩れなどでそのルートは使えないとのことであった。ダム堰堤南300mの植林作業駐車スペースから直登するしかないと教えられた[マップコード430 402 843*26](地図)。
そこで青杉城の右の鞍部を目指し、鎌と杖を持って登ることにした。はじめは楽であったが、植林区域を過ぎるとタラの刺に刺され、鎌で払いながら、2時間ほどかけて鞍部に辿りつけた。丸屋城のもう一つ東の尾根であった。
そこより南(左)に比高150mほど登ると、段々になった郭が4段ほどあり、腰郭を経て標高494.7mの青杉ヶ城山頂上に青杉城主郭がある。東西約50m南北約40mの規模で「青杉城跡」の木製標識がある。
帰りは、ロープなど一切ないため少し下ったところで、ダム湖が見え少し右に逸れていることに気付き、左に修正しながら下ると傾斜が急になり、滑落する羽目になった。沢に出て下ってゆくと滝があり、脇に逸れて何とか登り口が見え、やっとのことで辿り着けた。ひどい目に遭い、とても人に薦められたものではない。
遠回りなようだが、安右エ門城(地図:294m)に登り、そこから尾根伝いに丸屋城(地図:424m)を経て、登ったほうが良いと思う。
【案内】 JR三江線「浜原駅」前より江の川に架かる橋を渡り、左折南に1㎞行った交差点を右折する。墓地の先の登り口(地図)から西に行き堀切のある地点から西に直登すると安右エ門城であり、標識などは無い。安右エ門城の南尾根は背丈を越える隈笹が生えており、苦労するようだ。
【歴史】 鎌倉時代末期の元弘三年(1333年)、後醍醐天皇が挙兵すると、当時の佐波氏当主佐波顕連は後醍醐天皇側に与した(元弘の乱)。
建武の新政後、足利尊氏の反乱によって南北朝時代に突入し、顕連は防衛力の強化に迫られて青杉城を築城した。
しかし、南朝:正平五年/北朝:観応元年(1350年)に、北朝側の名将高師泰が城を攻撃し、約1ヶ月の攻防戦の後に青杉城は落城。佐波顕連は自害したとも、討死したとも言われている。
その子、佐波実連は北朝に帰順し、佐波氏は存続した。戦国時代、佐波氏は尼子氏に従うが、尼子氏が滅亡すると毛利氏に従属した。
安土桃山時代末期に佐波氏は備後国東城の五品嶽城を領したため、青杉城は廃城になったとも、吉川氏の属城になったとも言われ、佐波氏の居城としての役目を終えた。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長2ヶ国に減封されると、青杉城も廃城になったと思われる。