吉野ヶ里遺跡 (国の特別史跡・日本100名城88)
所在地 佐賀県吉野ヶ里町田手1843 2010.9.4
吉野ヶ里遺跡 (国の特別史跡・日本100名城88)
所在地 佐賀県吉野ヶ里町田手1843 2010.9.4
物見櫓・竪穴住居群
竪穴住居
主祭殿
祀堂・土塁
環濠・柵
吉野ヶ里遺跡 北内郭(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 田手川の西に位置しJR長崎本線の北の広大な敷地を占める。長崎自動車道「東背振IC」に接続する国道385号線(三田川バイパス)を南に約3.8㎞行った地点の西に「吉野ヶ里公園」駐車場がある[マップコード37 542 337*08]。
「吉野ヶ里遺跡歴史館」(表記番地)で入場券(15裁以上420円・65裁以上200円)をもとめ田手川に架かる橋を渡って入場する。見学バスが運行されている。
大きく二か所、土塁に囲われた郭がある。南内郭(地図)には竪穴住居や高床倉庫、物見櫓があり、北内郭には高床式主祭殿や祀堂等多数が復元されている。
平成二年(1990年)5月に国の史跡、翌年4月に、国の特別史跡に指定された。
平成四年(1992年)閣議によって国営歴史公園の整備が決定した。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(88番)に選定された。
【歴史】 縄文時代後期には、吉野ヶ里丘陵の周辺部に人が生活していたと推定されている。
紀元前4世紀頃には、吉野ヶ里丘陵の中に集落が形成され始め、弥生時代前期には、吉野ヶ里丘陵のところどころに分散して「ムラ」ができ始める。また、南のほうの集落に環濠が出現する。
中期には、吉野ヶ里の丘陵地帯を一周する環濠が出現する。また、墳丘墓や甕棺が多く見られるようになる。
弥生時代後期には外壕と内壕の二重の環濠ができ、Ⅴ字型に深く掘られた総延長約2.5㎞の外壕が囲んでいる範囲は約40haにもなる。壕の内外には木柵、土塁、逆茂木(さかもぎ)といった敵の侵入を防ぐ柵が施されていた。また、見張りや威嚇のための物見櫓が環濠内に複数置かれていた。
大きな外壕の中に内壕が二つあり、その中に建物がまとまって建てられている。北の集落は北内郭、南の集落は南内郭と命名されている。
古墳時代になると、吉野ヶ里遺跡の濠は大量の土器が捨てられ、埋め尽くされてしまう。集落はほぼ消滅して離散してしまう。
このようなことは、近畿地方や各地の環濠集落も同じような経過を辿る。奈良・平安の律令制時代には、神埼郡の役所的な性格の建物があったと推定されている。
平成元年(1999年)2月23日、一部の報道機関によって大々的な報道が始まる。ちなみに、この前日の2月22日が「吉野ヶ里遺跡で大規模な環濠集落が発見された日」とされている。
これにより連日全国から大勢の見学者が訪れるようになり、同年三月には県は遺跡の敷地地域の開発を中止した。
報道がなされた当初は邪馬台国に関係する遺跡ではないかとも見方もあり、一部で九州王朝説も取り上げられた。
現在は、九州北部にあった複数の「クニ」の一つに過ぎないのではないかという見方もされている。