都於郡城 (とのこおりじょう) (浮船城) (国の史跡)
最寄地 宮崎県西都市鹿野田6101 2016.5.15
都於郡城 (とのこおりじょう) (浮船城) (国の史跡)
最寄地 宮崎県西都市鹿野田6101 2016.5.15
登城ルート(緑線は車道:赤丸は本丸/緑丸は二の丸/青丸は三の丸)
伊東満所像
本丸跡
本丸奥の城間の空堀
奥の城跡
三の丸跡
二の丸・本丸間の空堀
二の丸跡・土塁
都於郡城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道18号線に面した「都於郡保育所」(表記番地)の北を左折して400mほど行くと左側に駐車場が用意され、案内図、伊藤四十八城図などが建てられている[マップコード66 795 554*45](地図)。
本城は本丸の北に空堀を挟んで奥の城、本丸の西に空堀を挟んで二の丸、三の丸と並び、三の丸の南に西の城が配置されている。本丸、二の丸、奥の城には土塁がよく残り、本丸二の丸間の空堀は大規模である。、
平成十二年(2000年)9月6日に国の史跡に指定され、2001年より整備に伴う遺構確認調査が実施されている。
また、都於郡城にて生誕した遣欧少年使節・伊東マンショ(祐益)を記念し「伊東満所像」が設置されている。
【歴史】 建武二年(1335年)、足利尊氏より都於郡三百町を賜って日向に下向した伊東本宗家の伊東祐持による築城といわれ、一国人領主にすぎなかったころよりの本拠であった。
後にこの都於郡城を本拠として、勢力を拡大する事になった。
城は高さ100mの丘陵に築かれた本城、周囲に支城(日隠城、東城、泉城、高城、向城)を配し、その間を堀や池を巡らすという中世的城郭の典型的な様式である。なお本城から峰続きに1.3km東方に日隠城があり、大規模な城域を誇る威容は、西国でも有数のものであった。
祐持の子祐重の代に大修築が加えられた。
城は幾度かの兵火に焼けたが、永正元年(1504年)三月二十一日、城中からの失火によって城外まで延焼し、建物器物の大半を消失したこともあった。
伊東氏は後に日向国の大半を領して、伊藤四十八城と呼ばれる城を持ったが、都於郡城は佐土原城とともにその本城として繁栄した。
天正五年(1577年)に伊東義祐が島津氏の侵攻に敗れ一時没落すると、都於郡城には島津義久が入城した。
天正十五年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐、高城の戦いにおける前線基地となったが、島津氏は敗北遁走し都於郡城は戦後廃城となった。
元和元年(1615年)、江戸幕府の一国一城令により都於郡城は正式に廃城となった。