三入高松城 (みいりたかまつじょう) (熊谷城・高松城) (県の史跡)
最寄地 広島県広島市安佐北区可部東5丁目11−13 2019.3.9
三入高松城 (みいりたかまつじょう) (熊谷城・高松城) (県の史跡)
最寄地 広島県広島市安佐北区可部東5丁目11−13 2019.3.9
登城ルート
登り口・墓地擁壁
南尾根の堀切
与助丸
鐘の段
本丸と鐘の段間の空堀
本丸石垣
本丸西側・説明板・城跡碑・三角点
三入高松城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高300m】
【感想】 根谷川左岸の標高338.7mの高松山に築かれている。東西に鐘の段、本丸、2の丸、甲丸(つめまる)、3の丸と配置され、南側に馬場、与助丸が設けられている。
本丸東側に破壊された石垣、空堀があり、西側に石垣、馬場に井戸が残っている。破却された跡とはいえ、堀などの遺構は消し難く、よく残り広大な城は見所が多い。
登り口にある墓地の上段に、2014年8月20日未明の豪雨災害で流出した55基の墓をまとめた合同塚が祀られている。
一帯は豪雨災害の爪跡も生々しく、多くの方が亡くなられたテレビ放映された場所と、思い至り涙が沸いてきた(合掌)。
【案内】 国道183号線「可部郵便局北」交差点より、東に約400m行き、根谷川を渡って左折、堤防道路を200m程行くと、道路が広くなりそこに駐車できる[マップコード22 677 126*66]。擁壁前に登山口の石碑、説明板が建てられている(地図)。
東麓の広島可部パークゴルフ(株)(広島市安佐北区可部町大字上原675−4)の北の峠にも登山口がある。
墓地一帯は崩落があり、まさに復旧工事が終わった段階で、新しい砂防ダムが複数設置されていた。
沢の北側から高松神社への登り道があったと思われるが、崩落で失われているようだ。沢の南側を通って3段の石垣の平坦地左を抜け九十九折の道を登ると、南側のピークに着く。
一息入れて、北に登ると「与助丸」の標識が立ち木に結わえられ、堀切を経て与助丸に着く。そこから登ってゆくと、東西に細長い馬場があり、井戸が残されている。
更に登ると、本丸があり、東側に空堀、鐘の段の曲輪がある。本丸は東西2段になり西側に城跡碑・三角点・説明板が建てられている。西側に下ってゆくと、狭い2の丸、石垣があり、甲丸を経て下段に細長い高松神社の3の丸がある。
昭和二十六年(1951年)4月6日、広島県の史跡に指定された。
【歴史】 熊谷氏は、承久三年(1221年)の「承久の乱」の戦功により安芸三入庄の地頭職を与えられ、熊谷直時は武蔵国熊谷郷から移り、伊勢が坪城を構え居城とした。
しかし戦乱の世になるにつれ、丘城・伊勢が坪城の防備に不安を感じ、当主の熊谷氏4代直経は、急峻な高松山に居城を構えた。 しかし、応永年間(1394年~1428年)に築城されたとする説などもあり、正確な築城年月は不明である。
戦国時代当初、熊谷氏は安芸武田氏に臣従していたが、熊谷氏12代信直の代になり領土問題などの争議が起こったため武田氏から離反した。
天文二年(1533年)信直は毛利元就と和議を結び、以後毛利氏の重臣となっていった。
同年、熊谷氏の旧主・安芸武田氏の武田光和による攻撃を受けたが落城せず、その防御能力の高さを見せ付けた。
天正十九年(1591年)毛利輝元が広島城を築いて移ると、熊谷氏13代高直も城下に移住したが、慶長五年(1600年)「関ヶ原の戦い」の後、毛利氏の防長移封に従い熊谷元直が安芸国を離れるまで、三入高松城は熊谷氏の居城であった。
元和元年(1615年)の一国一城令で徹底的に破却され、多くの遺構が消滅した。
城の北麓に熊谷高直が築いたとされる熊谷氏居館の「土居屋敷」跡がある。