朝日嶽城 (あさひだけじょう) (市の史跡)
最寄地 大分県佐伯市宇目大字塩見園1311 2016.5.16
朝日嶽城 (あさひだけじょう) (市の史跡)
最寄地 大分県佐伯市宇目大字塩見園1311 2016.5.16
登城ルート
県道横の登り口看板
登り口・説明板
説明板
堀切・土橋
主郭跡
主郭・祠
朝日嶽城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【案内・感想】 県道39号線の表記番地の東約300mに、大きな「朝日嶽城跡登り口」看板が建てられ、説明板が建てられている[マップコード452 639 436*63](地図)。
歩行距離約500mで標高343m朝日岳に着く。堀切の土橋を経て登ると、頂上の主郭には標柱、祠、墓が建てられているが、草が多く放置状態だった。また蛭山の様で下山後、気が付いたら蛭に吸い付かれていた。
昭和五十三年(1978年)8月18日、宇目町の史跡に指定された。
【歴史】 天正六年(1578年)十一月、日向高城の合戦で総崩れとなった大友宗麟(義鎮・よししげ)は島津軍の来攻に備える為、野津院星河城主柴田紹安に築城を命じ、豊後・日向国境線の朝日岳に天正十年(1582年、築城した。
日向より豊後に抜ける街道筋を押さえる要衝にあったが、築城・守城を任された紹安はこれを左遷として不満に思い、天正十四年(1586年)十月島津義久軍が侵攻してくると、すかさずこれに内応、明け渡した。
直後、この城は島津氏の拠点として土持親信が入城し、城主となった。しかし、わずか半年の後、天正十五年二月大友氏の家臣・佐伯惟定の手で奪還された。
そして豊臣秀吉の九州征伐が終わり、九州情勢が平穏になった後の文禄二年(1593年)廃城になった。