鶴居城 (つるいじょう) (稲荷山城)
最寄地 兵庫県神崎郡市川町鶴居1085 2019.10.26
鶴居城 (つるいじょう) (稲荷山城)
最寄地 兵庫県神崎郡市川町鶴居1085 2019.10.26
登城ルート(緑線は車道)
登り口
3郭(頂上 200m手前)
2郭
2郭の石積
主郭虎口下の石積み
主郭
鶴居城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高310m】
【感想】 市川町鶴居の標高433mの稲荷山山頂に主郭が築かれており、南東方向に2つの郭がある。
主郭虎口付近に石積が見られ、2郭先に土塁付の堀切や石積が残っていた。
【案内】 播但線「鶴居駅」の西約1km、表記番地の西の案内板のある墓地に駐車できる[マップコード491 074 505*56] (地図)。そこから西に行くと門型のフエンス扉があり、尾根先端に登り、北西へ尾根の遊歩道を延々と登ってゆく〈1000mの遊歩道の200m毎に標識があるので安心して登れる〉。
頂上200m手前の右側に3郭があり、その上に2郭がある。最高所に主郭がある。
【歴史】 南北朝時代後半、赤松則村(円心)の孫・永良三郎則綱がここに築城し、居城とした。
赤松氏は嘉吉の乱(1441年)のあと、但馬の山名持豊の兵4500騎に生野峠から攻め込まれ、大山口・田原の戦いに敗れ、長享二年(1488年)赤松政則が播磨を取り返すまでの45年間、山名氏の支配下に置かれた。
その後、赤松政則は応仁の乱(1467~78年)中に失地を回復し、守護となったので稲荷山城も復興し、広瀬近江守雅親が城主となり、谷城主も兼ねていたが、永禄三年(1560年)討死したと云われている。
同じく谷城は、永禄の頃戦火ににかかり焼失廃城となり、両城とも同じ運命を辿ったと考えられる。