大野城 (おおのじょう/おおののき) (古代山城) (国の特別史跡・日本100名城86)
所在地 福岡県糟屋郡宇美町四王寺207 2013.10.8 2014.5.8
大野城 (おおのじょう/おおののき) (古代山城) (国の特別史跡・日本100名城86)
所在地 福岡県糟屋郡宇美町四王寺207 2013.10.8 2014.5.8
登城ルート(赤は百間石垣/青は北石垣/緑は小石垣/紫は主城原/茶は増長天地区/水色は大石垣)
百間石垣
北石垣
小石垣
主城原・建物礎石
村上建物跡
増長天地区
大石垣
大野城 主城原(地図)
【遺構★★★★☆ 比高80m】
【案内・感想】 四王寺山に、尾根をつたって延々8200m以上に及ぶ土塁が山腹をめぐり、土塁が谷にかかるところでは、石垣が築かれ、北方に一箇所、西南に一箇所、南部に二箇所の城門を開いている。城内の高い平坦地には数棟ずつ七箇所ほどに、都合70棟ほど建物礎石群が残っている。
県道80号線の九州自動車道高架下の東の「宇美西口」交差点を北に折れ、すぐ東に行き大きく廻って県道80号の下を南下する。「坂本食糧」の東をさらに南下し、「船石」「屏風岩」を過ぎ100m余で大城城跡の百間石垣がある[マップコード55 422 744*04](地図)。
その東の登山道を登っていくと比高約80mの斜面に北石垣があり(地図)、東に下って小川近く小石垣がある(地図)。
戻って尾根筋の南に大野城跡碑の立つ建物礎石が残る。更に南に主城原があり建物礎石が残る。
その南に行くと村上建物跡の礎石群が数多くみられる。その周回遊歩道の最南端は四王寺集落に続いている。
「県民の森センター」(表記番地)駐車場の南の駐車場(北東100mに玄清法印之墓)から西に遊歩道をゆくと増長天地区の礎石群があり発掘調査中である(地図)。更に西に下ると大石垣が良く残っている(地図)。
また「県民の森センター」の南約1.8㎞に「岩屋城跡」がある。
昭和二十八年(1953年)3月31日、国の特別史跡に指定され、昭和五十六年(1981年)3月19日、頂上部尾根線の土壘が全域にわたって確認され、大野山全域を追加指定された。
【歴史】 天智天皇二年(663年)白村江(はくすきのえ)の戦いにおいて、百済復興を目指す倭国(後の日本)は新羅・唐連合軍に敗れ、新羅・唐の侵攻に備え西日本に築かれた城の一つで、北西の水城(みずき)や南方の基肄城(ぎいじょう)と共に大宰府政庁の防衛ラインを形成した。
664年、対馬・壱岐・筑紫に防人とのろし台を設置、大宰府の西方に水城を築造した。
翌天智天皇四年(665年)八月、長門に城を築き、同年同月に亡命百済人の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)を筑紫へ派遣し、大野と椽(き)に城を築かせた。
このうち、筑紫の大野に築かれた城が大野城であり、椽に築かれた城が基肄城と比定されている。
古代山城は、西日本各地に古代に造られた山城の中で、「日本書紀」「続日本紀」になんらかの記載がある諸城およびその系統の山城で12の城(高安城・屋嶋城・大野城・基肄城・金田城・鞠智城が存在、長門など六城は不明)がある。
また公的な記録になく、古代山城類似の遺構として神籠石式(こうごいししき)と称されている山城群があり、鬼ノ城・御所ヶ谷・永納山城など16城が発見されている。