宇陀松山城 (うだまつやまじょう) (秋山城・神楽岡城) (国の史跡)
最寄地 奈良県宇陀市大宇陀春日59 2016.9.4
宇陀松山城 (うだまつやまじょう) (秋山城・神楽岡城) (国の史跡)
最寄地 奈良県宇陀市大宇陀春日59 2016.9.4
登城ルート
登り口・道標
西側空堀
南西虎口(雀門跡)
大手石垣
本丸・奥が天守郭
宇陀松山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高100m】
【案内・感想】 春日神社(表記番地)へ向かう道は狭く、また行き止りもあるので注意を要する。北側の「天理教宇陀分教会」に駐車できる[マップコード266 217 464*14]。
春日神社境内西側の幟が立っている道より登る。登城路は整備され、比高100mの南西虎口(雀門跡)に着く。途中各所で発掘調査が行われていた。
大手石段、石垣が残り、空堀が西から南、東の三方を囲む形でよく残っている。本丸は広く、東側に石垣を備えた天守台がある。天守台もかなり広い。
平成十八年(2006年)7月28日、国の史跡に指定された。
【歴史】 宇陀郡を領分する有力国人宇陀三将(秋山氏、芳野氏、沢氏)の一人、秋山氏が居城として古城山に山城を築いたのが始まりである。
築城時期は不明だが、南北朝時代には築かれていたと思われる。また、城名は秋山氏が居城としていた頃は、秋山城と呼ばれていた。
天正十三年(1585年)、豊臣秀長の大和郡山への入部に伴い秋山氏は宇陀から退去した。
以後、伊藤義之、加藤光泰、羽田正親、多賀秀種らの居城となり、改修が行われ近世城郭へと移行した。この間の大規模な改修により、宇陀松山城が大和郡山城や高取城とともに大和国支配の要として豊臣政権に認識されていたことが伺える。
慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて多賀秀種は西軍に属したため改易され、福島正則の弟福島高晴が入城した。 高晴は、豊臣政権下の大名の改修に加えてさらに大規模な改修を行った。
近年の発掘調査により、本丸御殿をはじめとした礎石建物や大規模な石垣、瓦・陶磁器類などが出土し、当時の大改修の様子が明らかになってきている。これらの大名の大改修を機に、城名が松山城と呼ばれるようになったと考えられる。
元和元年(1615年)、大坂夏の陣において豊臣方に内通したとして、福島高晴は改易され、城も小堀遠州らによって破却され廃城となった。