高山城 (たかやまじょう) (妻高山城・古高山城) (国の史跡)
所在地 広島県三原市高坂町真良252 2014.5.14
高山城 (たかやまじょう) (妻高山城・古高山城) (国の史跡)
所在地 広島県三原市高坂町真良252 2014.5.14
登城ルート(緑は二ノ丸)
登り口
北の丸跡
二の丸跡
二の丸跡・本丸切岸
本丸跡
高山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【案内・感想】 国道2号線「仏通寺入口」交差点より県道50号線を北に1.5㎞、山陽新幹線高架下より北に約250m行き左折して、T字路[マップコード257 013 176*68] を西に登ってゆくと墓地の駐車場に着く(地図) 。
そこより西の「三尺道」と呼ばれる登山道を登り詰めると、本丸に出る。北に二の丸、北の丸と並んでいる。
馬場の南の低地を過ぎ登って行くと、出丸、西丸、イワオ丸(地図)、高野丸、太鼓丸と並んだ曲輪がある。
九曲輪と多くの出丸を持ち、中央の低地を挟んで二つの連郭式の山城であり、標高191m比高約100m、広さ41万㎡を有している。
城跡の下を山陽新幹線のトンネルが貫通している。
昭和三十二年(1957年)12月11日、「小早川氏城跡」として、三原城跡・新高山城跡と共に国の史跡に指定された。
【歴史】 土肥実平(さねひら)は、源頼朝の元で平家討伐に功績を挙げ、吉備三国(備前・備中・備後)の惣追捕使(守護)に任ぜられた。
実平の子遠平(とおひら)は、土肥郷の地名である小早川氏を称したが、承久の乱で戦功を挙げて安芸国沼田荘を与えられた。
高山城は小早川氏の居城として建永元年(1206年)、遠平の孫・小早川四代茂平(しげひら)により築かれた。その後、小早川氏は沼田小早川氏と竹原小早川氏に分かれたが、高山城は沼田小早川氏(本家)の居城であった。
天文十年(1541年)、竹原小早川家の当主・小早川興景が継嗣なく早世したため、毛利元就の三男徳寿丸(小早川隆景)を養子に迎えた。
隆景は天文十三年(1544年)同家の当主となった。一方、沼田小早川家の当主・小早川繁平は若年のうえ病弱であったので(失明していたとされる)、隠居に追い込まれ、天文十九年(1550年)隆景が沼田小早川家をも継ぐこととなり、両家は統合された。
隆景は天文二十一年(1552年)、対岸の新高山城に居城を移したため、高山城は廃城となった。