高槻城 (たかつきじょう) (入江城)
所在地 大阪府高槻市城内町3‐10 2014.5.17
高槻城 (たかつきじょう) (入江城)
所在地 大阪府高槻市城内町3‐10 2014.5.17
高槻城跡碑
城跡公園
高山右近像
模擬天守台
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 現在、城域の南側一部が城跡公園として整備されており、「高槻市立歴史民俗資料館」(表記番地)が建てられている(地図)。駐車場はなく、周囲の道路も狭く遠くに停め 歩く必要がある。
北側に模擬天守台石垣が築かれ、高山右近像が建てられている。
【歴史】 高槻城の文献上の初見は、大永七年(1527年)の桂川の戦いで山崎城に詰めていた薬師寺国長が波多野稙通(たねみち)に攻められ、高槻城に逃亡した記録である。
その後、芥川山城に三好長慶が入城した天文二十二年(1553年)には、高槻城はその支城となっていたようで、入江春継が城主となっていた。
長慶が永禄七年(1564年)に亡くなると、三好三人衆の一人三好長逸(ながやす)がこの地域一帯を治めていたが、織田信長が摂津に侵攻し、永禄十一年(1568年)9月28日に芥川山城を落城させると、高槻城も無血開城に近い形で降伏した。
永禄十二年(1569年)一月、本圀寺(ほんこくじ)の変で十五代将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する際、三好三人衆と行動を共にしていた入江春継は敗退し、自害した。
この時逆に活躍したのが、芥川山城主であった和田惟政で、信長より高槻城を与えられ高槻城を本城とした。
この時から高槻城は近代城郭として大きく変わった。和田惟政は白井河原の戦いで戦死した。
その後高山友照・右近父子が城主となって、本格的な城郭が築かれ、天正四年(1576年)に念願であった教会を建設、天正十一年(1583年)には修学寮も建設し、領内には20ヶ所の教会、当時の高槻領人口の60%以上、18,000人もの人々がキリスト教徒となり、宗教活動が盛んに行なわれた。
天正十年(1582年)六月に本能寺の変で信長が討たれると、豊臣秀吉は大阪城の築城に着手し、右近は天正十三年(1585年)に船上城へ転封となり、高槻城は秀吉の直轄領となったが、同年末には亀山城へ移った。
高槻城は豊臣方の代官数名や新庄直頼が城主となったが関ヶ原の戦い後、今度は徳川氏の直轄地となった。
徳川方の代官や青山忠成が城主となり、慶長十九年(1614年)の大阪冬の陣、翌年の大阪夏の陣では、高槻城が補給基地となって徳川方の勝利に貢献した。
元和元年(1615年)六月に内藤信正が高槻藩・高槻城主に、元和三年(1617年)に土岐定義が城主となると、高槻城は完全な近代城郭として改修された。
元和五年(1619年)松平家信が形原城より移り、寛永十三年(1636年)、前年に高槻城加番となっていた岡部宣勝が藩主となり、寛永十七年(1640年)九月岡部宣勝が岸和田城へ移り、松平康信が城主となった。
慶安二年(1649年)永井直清が勝竜寺城より移り高槻城主となった。永井直清は侍屋敷の拡張、城下町の整備、領内では水田開発、各所に碑を建てて文化行政にも力を注いだ。
その後永井氏は13代にわたって幕末まで高槻城主を務めた。明治四年(1871年)七月、廃藩置県により廃城となった。