佐東銀山城 (さとうかなやまじょう) (銀山城・金山城) (県の史跡)
所在地 広島県広島市安佐南区 2019.5.11
佐東銀山城 (さとうかなやまじょう) (銀山城・金山城) (県の史跡)
所在地 広島県広島市安佐南区 2019.5.11
登城ルート(緑線は車道)
馬返し
御門跡
千畳敷(本丸)
頂上・三角点
館跡
出丸
佐東銀山城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高300m】
【感想】 広島市安佐南区にある標高410mの武田山頂上から三方に伸びる尾根一帯に築かれている。
岩場を巧みに利用した門跡、館跡や西尾根に深い堀切がよく残っており、見所は多い。
遊歩道が整備され、頂上からは広島市街を一望でき、ハイキング客も多く見られた。
馬場跡から麓に降ろうと思ったが、標識が無くなり迷ってしまい、頂上まで戻り、登った道を引き返した。
【案内】 市道「南下安」交差点より北北西に、狭くすれ違いも困難なくねくねした道を1.1km行くと終点に「武田山憩の森」駐車場が用意されている[マップコード22 399 344*38](地図)。
そこより北に行くと案内板があり、左の沢から登るコースが一般的である。
谷筋の急な遊歩道を登ると比高160m地点の尾根に着き、右に馬返しの郭がある。戻って北西に行くと、自然石を利用した御門跡がある。
その上に千畳敷と呼ばれる本丸がある。さらに登ってゆくと頂上に着き三角点や説明板が建てられている。
北東尾根には岩場を巧みに利用した館跡、見張り台、出丸が設けられている。
一方南西尾根には堀切や弓場があり、「観音堂」から南に下ると、上高間や馬場跡がある。
昭和三十一年(1956年)3月30日、広島県の史跡に指定された。
【歴史】 承久三年(1221年)の承久の乱の後、恩賞として安芸国佐東郡を得た甲斐国守護・武田信光は、この武田山の麓に守護所を建て、安芸国佐東郡の経営に乗り出した。
文永十一年(1274年)武田信時は元軍に備えるため、安芸国に下向し、その後、佐東銀山城が築城された。
正安元年(1299年)桜尾城主平員家の攻撃により落城した。この後、現在の城域に築城し、移転した。
永正十三年(1516年)武田元繁、安芸国内七郡の探題となった。
永正十四年(1517年)武田元繁、有田城を攻め、毛利・吉川軍と戦い敗死した(有田中井手の戦い)。
大永四年(1524年)大内義興が安芸武田氏を攻撃した。佐東銀山城を包囲するも、尼子氏の援軍により敗北、撤退した。
享禄元年(1528年)大内義隆、安芸武田氏を攻め、佐東銀山城を包囲するも、撤退した。
天文二年(1533年)武田光和、家臣の熊谷信直と絶縁した。熊谷氏居城・三入高松城を攻めるも敗北した(横川表の戦い)。
天文九年(1540年)尼子詮久、毛利元就本拠・吉田郡山城を攻めるが敗北し、翌年撤退した(吉田郡山城の戦い)。
天文十年(1541年)大内氏の命を受けた毛利元就に攻められた武田信実は、佐東銀山城を放棄して出雲国へ逃亡し、安芸武田氏は滅亡した。同年、大内義隆が佐東銀山城に冷泉隆豊を城番にして管理した。
天文二十四年(1555年)毛利元就、大内氏より佐東銀山城を奪取した(厳島の戦い前哨戦)。この後、城番は福井元信が務めた。
天正十九年(1591年)広島城が、一応の完成を見る。
慶長五年(1600年) 関ヶ原の戦いの後、毛利氏の防長移封に伴い、佐東銀山城は廃城となった。