芥川山城 (あくたがわやまじょう)
最寄地 大阪府高槻市黄金の里1丁目14−8 2017.3.25
芥川山城 (あくたがわやまじょう)
最寄地 大阪府高槻市黄金の里1丁目14−8 2017.3.25
登城ルート
入口・道標
土橋・空堀
主郭・2郭
城山城址碑・主郭
主郭北の郭
西郭・土塁
芥川山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高100m 】
【感想】 高槻市北部に位置し、北東から西側を芥川に囲まれた標高180mの三好山に築かれている(個人所有の山)。東側に土塁の残る曲輪群があり、通路の左を竪土塁で塞ぎ防御している。
土橋で西側の曲輪群と結ばれ、最高所に主郭がありその三方に郭が階段状に設けられた要害となっている。
【案内】 高槻黄金の里老人ホーム(表記番地)の先にわずかに路駐でき、右に登り口があり、復元図が掲示されている[マップコード52 146 670*47](地図)。南の妙力寺前の道は狭く普通車には厳しく(脱輪するかも)、南東からの道を通ることを薦める。
緩やかな砂利道を15墳ほど歩くと、東曲輪群に着く。3つほどの土塁の曲輪が見られた。通路の左に竪土塁が2本沢まで伸びている。
土橋がよく残っている。その先に大手からの道が左手にある(少し下ると石垣がある)。
南側の郭をへて登ると、2郭があり、3mほどの切岸を巡らした主郭がある。主郭には「城山城址」の石碑や三好長慶を祀った祠がある。北側にも郭がある。
そのほか北東、北西、南西(田の丸)に郭が階段状に残っている。
【歴史】 初代城主は能勢頼則であるが、永正十三年(1516年)八月に没し、2代目城主は息子の能勢頼明、更に大永三年(1523年)には能勢国頼が3代目城主になっていたと思われる。
大永六年(1526年)、細川高国による香西元盛謀殺に激怒した香西元盛の兄の波多野稙通・柳本賢治らが反乱を起こした。
波多野稙通らが丹波から京都へ向かう途中、芥川山城を含む摂津の城々を降伏開城させ、その際に能勢国頼は逃亡したと思われる。
天文二年(1533年)四月、淡路に追われていた細川晴元が軍勢を引き連れて芥川山城に入城した。
天文八年(1539年)八月、晴元は三好長慶(ながよし)によって京都を追われた。芥川山城には三好長慶が入城した。
三好長慶は父・元長の従弟に当たる芥川孫十郎を城主につけた。しかし天文二十二年(1553年)七月、芥川孫十郎に謀反の疑いありと判断した長慶は芥川山城を包囲、八月十二日、孫十郎は篭城戦の末に兵糧がつきて降伏した。
永禄十一年(1568年)九月二十八日に織田信長が摂津に侵攻、高槻の天神馬場に陣取り芥川山城を攻撃、その日のうちに落城し長逸は細川昭元を連れて阿波国へ逃れた。
織田信長は翌二十九日に芥川山城に入城し、「摂津三守護」であった和田惟政を城主に据えた。
翌永禄十二年一月五日、三好三人衆は将軍足利義昭の屋敷を襲撃する事件(本圀寺の変)を起こした。これに対し和田惟政がいち早く駆けつけ、三人衆の撃退に大きな役割を果たし、この功により高槻城も与えられた。惟政は高槻城に入り、家臣の高山友照に芥川山城を預けた。
しかし、この頃より惟政は徐々に近隣諸国との間で確執を生じ、元亀二年(1571年)八月白井河原の戦いで荒木村重・中川清秀に討ち取られた。その後高槻城は息子の和田惟長が継いだが、これを好機と見た高山友照・重友父子は元亀四年(1573年)四月、惟長を追放し自らが高槻城主となった。
この時に芥川山城は廃城になり、60年に渡る歴史を閉じたと思われる。