御船城 (みふねじょう)
最寄地 熊本県上益城郡御船町滝川3 2014.5.9
御船城 (みふねじょう)
最寄地 熊本県上益城郡御船町滝川3 2014.5.9
登城ルート
本丸登り道
宗運門
本丸跡
本丸北・天満宮
南側の腰郭
御船城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 御船町立御船小学校(表記番地)の南に城山公園として整備されており、小学校の駐車場を寸借した[マップコード29 171 311*14] 。二ノ丸は削平や住宅建築などにより地形は大きく変わっている。
約15mの高台に東西40m・南北150mの本丸跡があり、曲輪の北端に甲斐宗運を合祀した城山天満宮があり、社殿左には文化十二年(1815年)に藩校時習館が建立した「御舟古城記」の石碑がある。
中央は芝地であり南に熊延鉄道の社長・田副清の胸像が建てられている。南西端に土塁が一部残り、一段下がったところに腰郭がある。
【歴史】 城の築城年代は不明だが、興国四年(1343年)に阿蘇惟澄が足利軍の進攻を当城で防いだという。
また、興国六年十月十六日(1345年11月18日)に筑後三郎の大軍を御船城で撃退している。
正平三年(1348年)には阿蘇惟時らが懐良(かねなが)親王を当城に迎えており、当時は阿蘇氏が居城していたと考えられている。
延文四年(1359年)には、大保原の戦いを有利に進めようとした豊後国の大友氏がこの戦いの直前に御船城を襲っている。後に南朝方の勢いが衰えると、城主の御船盛安は北朝に降伏した。
天文十年(1541年)には城主の御船房行が阿蘇氏に反乱し、これを討伐した甲斐宗運(親直)に御船城が与えられた。
親直が天正十三年(1585年)に没すると子の甲斐親英が城主となるが、島津氏の大軍に包囲されて同年に戦わずして降伏し、島津義弘が入城した。
天正十五年(1587年)の豊臣秀吉の九州征伐で島津氏が去ると、佐々成政が肥後に入り、やがて成政の検地に不満が募り肥後国人一揆が起きた。
一揆に参画した親英が処刑され、甲斐家は滅亡した。一揆鎮圧のため御船城には、天正十六年(1588年)三~五月頃まで黒田孝高(よしたか・如水)が城番として入り、続いて小西行長の支配下に入った。
関ヶ原の戦いの後は、加藤清正の領地に組み込まれ、清正は城の石垣を御船川の改修や若宮堰の建設に使ったとされる。
その後の一国一城令発令の時点で御船城の原形は既になく、慶安四年(1651年)に江戸幕府が肥後国内の古城を調査した際、曲輪250間と記されている。