高取山城 (たかとりやまじょう)
所在地 岡山県瀬戸内市邑久町東谷 2014.9.2
高取山城 (たかとりやまじょう)
所在地 岡山県瀬戸内市邑久町東谷 2014.9.2
登城ルート
登り口
東尾根の堀切・説明板
三の丸跡
二の丸跡
本丸跡
高取山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高150m】
【案内・感想】 砥石城跡北の交差点より県道231号線を西に川に沿って約1㎞行き、南に橋を渡った東谷公会堂に駐車、そこより南に約300m行った墓地の横より登り口がある[マップコード151 189 650*40](地図)。
標高163m比高約150mの山頂に楕円形の本丸がある。一段下がった東に三の丸、堀切、案内板がある。
本丸の南に堀切があり、北に二の丸があり、二段になっている。その北に下がって堀切がある。
三の丸より西に下った所に井戸があり、本丸の下に位置する井戸が2本、計3カ所に井戸が残る。
【歴史】 備前守護代浦上氏の重臣高取氏が居城したとの伝承がある。築城時期は定かでなく、その後千町平野南部を拠点に島村氏が居城したと推定される。
応仁年間(1467~69年)には備前守護代浦上氏に仕える島村氏の名が見られる。
『備前軍記』によると、浦上村宗の重臣として高取城主・島村弾正左衛門貴則の名があり、島村氏は代々この城を居城に浦上氏に仕えていたと考えられる。
貴則の子・豊後守盛実は、天文三年(1534年)浦上氏の家臣であった頃から仲が悪く、この地域を拠点に国人化していた宇喜多能家を砥石城に攻め滅ぼし、浦上氏隷下の国人に成長した。
しかし、島村豊後守も永禄二年(1559年)に宇喜多直家に謀反の嫌疑をかけられ謀殺され、居城も攻略された。