百済寺城 (ひゃくさいじじょう)
所在地 滋賀県東近江市百済寺町323 2017.1.13
百済寺城 (ひゃくさいじじょう)
所在地 滋賀県東近江市百済寺町323 2017.1.13
石垣
入口 ・門
石段北の石垣
本堂
本堂背後の空堀
【遺構★★★★☆】
【感想】 琵琶湖の東、鈴鹿山脈の西山腹に位置する。「湖東三山」(西明寺・金剛輪寺・百済寺)の1つである。
境内は広く、庭園から仁王門に行く途中の、あまり目立たないと所に、石垣が残っていた。
【案内】 県道229号線より東に行った百済寺の駐車場が用意されている[マップコード566 724 777*86](地図)。境内は有料(大人600円)で見学でき、石垣上に、本坊(喜見院)、庭園がある。
石段の参道が東西700mにわたって延び、西端に赤門、極楽橋、東側に仁王門、東端最高所に本堂がある。
仁王門手前の参道の北側、南側に夫々城郭石垣が残っている。また本堂東側に登ると浅い空堀が残っている。
平成十六年(2004年)12月10日、本堂が国宝・重要文化財に指定されている。
【歴史】 寺伝によれば、推古天皇十四年(606年)、聖徳太子の御願により百済人のために創建されたという。
平安時代には、近江国の多くの寺院と同様、比叡山延暦寺の勢力下に入り、天台宗の寺院となっている。
平安時代から中世にかけて、かなりの規模をもった寺院だったようだが、明応七年(1498年)の自火で全焼し、その数年後の文亀三年(1503年)の兵火でも焼け、この2回の火災で創建以来の建物ばかりでなく、仏像、寺宝、記録類なども大方焼けてしまった。
さらに天正元年(1573年)には織田信長の焼き討ちに遭い、またも全焼している。
当時、この地に勢力をもっていた佐々木氏の一族六角氏は、観音寺城の支城である鯰江城を百済寺の近くに築いていた。百済寺は森備前守の守る鯰江城に兵糧を送っていた。
信長は自分と敵対していた佐々木氏に味方するものとして、百済寺を焼き討ちした。本堂をはじめ現在の建物は近世以降の再興で、慶安三年(1650年)本堂、仁王門、赤門等が竣工した。