観音寺城 (かんのんじじょう) (国の史跡・日本100名城52)
所在地 滋賀県東近江市五個荘川並町/ 近江八幡市安土町石寺 2013.9.7 2016.12.26
観音寺城 (かんのんじじょう) (国の史跡・日本100名城52)
所在地 滋賀県東近江市五個荘川並町/ 近江八幡市安土町石寺 2013.9.7 2016.12.26
登城ルート(緑線は車道)
淡路丸・石垣
佐々木城跡にある城址碑
三角点へ行く途中の石垣
観音正寺・本丸入口
大手石段
本丸
食違い虎口石垣
本丸南側石垣
観音寺城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m(駐車場より)】
【感想】 東近江市と近江八幡市の境界にある標高432.6mの繖山(きぬがさやま)を中心に各所に曲輪を配した広大な城である。
大きな石を積んだ石垣が目立ち、淡路丸、本丸は特に見どころが多い。
【案内】 日本五代山城の一つである。安土城の南東2㎞の山頂付近に「観音正寺」がある。
「繖(きぬがさ)公園」(東近江市五個荘川並町1204)南の信号交差点の南(地図)より右折、林道「観音寺線」を行く(途中料金所があり往復500円)。約3㎞行った林道終点に駐車場が用意されている[マップコード67 800 880*15]。
約100m先の右手、標高364mの山頂に淡路丸(布施丸)があり石垣、虎口、土塁が残り、市田義恒墓がある(地図)。
50mほど西に佐々木城跡、三角点登り口がある。300mほど登ると、巨岩の中に佐々木城跡があり、城址碑が建てられている。さらに北西方向に約500m行くと、標高432.6mの繖山(きぬがさやま)頂上に三角点(地図)がある。途中に石垣の残る虎口や曲輪が点在している。
戻って、400mほど歩くと観音正寺である。受付裏の左より下り、観音正寺の石垣に沿って行き、しばらくして大手石段を登ると比高約40m(麓より比高約320m)の本丸跡に着く。
本丸跡は広く、土塁が西から南にかけてめぐり、その上部に石垣が残り、北西に食違い虎口の石垣がよく残っている。南東の虎口左に石垣が残っている。
その北約100mに小梅丸の石垣が遺る。又南約100mの平井丸に石垣、虎口、潜り門が遺る。
現在は保守管理のため、入山料500円を納めるようである。
昭和五十七年(1982年)1月30日、国の史跡に指定され、昭和五十九年(1984年)10月20日、追加指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(52番)に選定された。
【歴史】 正確な築城年代は定かではないが、『太平記』には、建武二年(1335年)に、南朝方の北畠顕家軍に備えて北朝の六角氏頼が篭もった記述があり、そのころには築かれていたと考えられている。
室町時代の応仁の乱では三度、観音寺城の攻防戦が展開される。一次は応仁二年(1468年)、細川勝元率いる東軍の京極持清の長男・勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃した。
城主の高頼、陣代の山内政綱らは京都にて東西の戦闘に参加しており、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え討った。数日間の攻防の後、伊庭行隆は敗れ、同年四月一日に城を明け渡した。
第二次は応仁二年十一月初め、陣代山内政綱がようやく京都より戻り観音寺城の防備を固めた。六角氏は同族で東西に分かれ戦っていたが、「弓削の戦い」で六角高頼に敗れた六角政堯と京極持清の連合軍は雪辱を果たすべく、戦闘準備を整え、同年十一月八日、観音寺城を攻めた。
山内政綱は防戦したが守り切れず、火を放ち敗走し、高頼方の武将23人が六角・京極連合軍に寝返ったと『碧山目録』に記載されている。
東軍の細川勝元は八代将軍足利義政を擁して官軍となり、権威を利用して文明元年(1469年)五月、六角高頼の近江守護職を解任、代わりに京極持清を守護に任命した。
これに激怒した高頼は焼失した観音寺城を修築、籠城し第三次の攻防戦が起きた。これに対し、京極軍は多賀高忠や六角政堯を派兵、鎮圧に向かわせた。高頼軍は山内政綱、伊庭貞隆、伊庭行隆を観音寺城やその支城に配置し、交戦状態になった。
猛攻であったが六角高頼軍も防戦し、三度目の戦いで京極軍を撃退することに成功した。
その後、大幅な城の改築が行われるが、永禄三年、六角義賢・義治父子の時に浅井長政との「野良田の戦い」で敗れ、お家騒動(観音寺騒動)に伴う家臣団の分裂で衰退した。
永禄十一年(1568年)、織田信長が足利義昭を擁して上洛の大軍を興すと六角氏は敵対し、九月十三日に信長に支城の箕作城と和田山城を落とされると、六角義賢父子は観音寺城から逃げ無血開城した。
その後、六角義賢父子は観音寺城に戻ることが出来ず、そのまま廃城になったと思われている。