赤穂城 (あこうじょう) (加里屋城・大鷹城) (国の史跡・日本100名城60)
所在地 兵庫県赤穂市上仮屋字東組131 2013.10.6
赤穂城 (あこうじょう) (加里屋城・大鷹城) (国の史跡・日本100名城60)
所在地 兵庫県赤穂市上仮屋字東組131 2013.10.6
大手隅櫓
大手門
本丸表門
天守台
天守台より見た本丸
大石邸長屋門
赤穂城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 千種川の西に位置し、2重の堀(三の丸は3重)が廻らされた平城で、現在「赤穂城跡公園」となり自由に立ち入りできる。
北側の三の丸に駐車場が用意されている[マップコード541 586 355*10](地図)。
横に赤穂大石神社(表記番地)があり四十七士の石像が参道に並んでいる。神社の南に大石邸や大石邸長屋門・近藤邸長屋門が保存され、太鼓橋(昭和十年復元)、大手門、二重隅櫓、表門、土塀が復元(昭和三十年)されている。
南に行くと外堀の中が二ノ丸門のある二の丸で市立歴史博物館、赤穂城発掘調査事務所があり土塀が復元され、南に二の丸庭園が復元工事中である。
石垣で囲われた内堀の中が本丸で、本丸表門が復元(平成八年)され、また御殿が平面復元され、池泉庭園が造られ壮麗である。三ヶ所の隅櫓台や天守台が遺る。
昭和四十六年(1971年)3月31日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(60番)に選定された。
【歴史】 文正元年~文明十五年(1466年~83年)頃、岡光広が加里屋城を築城した。
その後慶長五年(1600年)姫路藩主池田輝政の弟・長政が赤穂領主となり赤穂城の前身である大鷹城を赤穂郡加里屋に築城した。
慶長十八年(1613年) 赤穂は輝政の二男で岡山藩主忠継の所領となり、一重の堀・石垣・櫓・門が造営された。
元和元年(1615年) 忠継の弟・政綱が3万5千石を与えられ赤穂藩が立藩、御殿が造営された。
寛永八年(1631年)政綱が嗣子なく死去、弟の輝興が入封し、更に櫓・馬屋を造営した。正保二年(1645年)輝興の発狂により改易され、城は備中松山藩主・水谷勝隆預かりとなり、同年、浅野長直が5万3千石で入封した。
慶安元年(1648年)近藤正純が設計図を作成し幕府に築城計画を提出、異例の即日許可となり、築城開始、承応元年(1652年) 山鹿素行を1千石で召し抱え、築城についての意見を聞き、二の丸周辺の造営を変更。寛文元年(1661年) 赤穂城が完成した。
元禄十四年(1701年)3代長矩の江戸城中での吉良義央に対する刃傷事件により浅野氏は改易となった。城は龍野藩主脇坂安照預かりとなる。
元禄十五年(1702年)永井直敬が3万3千石で入封。同年十二月十四日、赤穂浪士討ち入りが起きた。
宝永三年(1706年)直敬転封により、森長直が2万石で入封。廃藩置県まで森氏が城主となった。
明治六年(1873年)廃城令により廃城となった。