三田城 (さんだじょう) (車瀬城)
所在地 兵庫県三田市屋敷町2−20 2019.4.14
三田城 (さんだじょう) (車瀬城)
所在地 兵庫県三田市屋敷町2−20 2019.4.14
南側の三田御池
三田小学校
城跡碑
高校南の空堀
三田城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 三田城の跡地には、現在兵庫県立有馬高等学校及び三田市立三田小学校の敷地となり城跡碑が建てられている。建造物などは存在しないが堀跡が残っている。
【案内】 三田市立三田小学校(表記番地)東角の正門横に城跡碑・案内板が建てられている。北の有馬高等学校との間に堀が残され、小学校南に堀の役目を果たした三田御池がある。
【歴史】 南北朝時代に赤松氏が有馬郡に侵入、その後赤松氏の一族であった有馬氏が有馬郡を領有していた。その頃は三田の中心地は東野上城(山城)で赤松氏範が築城したと言われている。
三田城の前身と言われている車瀬城がいつ頃築城されたのかははっきりしておらず、『三田城史』によると、車瀬城を築いたのが有馬村秀としている。
有馬国秀の時に荒木村重の支配下に入るが、天正三年(1575年)に不義の疑いがかかり自刃し、有馬氏の嫡流は絶えた。
その後三田城には、荒木氏一族の荒木平太夫が入城する。しかし、有岡城の戦いで村重が織田信長に背くと、天正六年(1578年)に羽柴秀吉、明智光秀、筒井氏らの武将に攻められ落城したと云われる。
その後池田氏、三好信吉が三田城の城主となったが、天正十年(1582年)に近江国から入封した山崎片家が2万2千石で、次いでその息子山崎家盛が城主となり、三田城を修築した。
慶長五年(1600年)関ヶ原の戦いで山崎家盛は西軍に加担したため、若桜鬼ヶ城へ転封となった。
その後、東軍に属した有馬氏庶流の有馬則頼で、淡河城を居城としていたが翌慶長六年(1601年)に2万石で三田城主となった。福知山城主となっていた有馬豊氏は慶長七年(1602年)父有馬則頼が没すると三田城主も併せて継承した。
だが、元和六年(1620年)有馬豊氏のとき久留米藩に21万石で移封となった。
寛永三年(1626年)出羽国上山城から松平重直が三田城主となった。しかし、6年後の寛永九年(1632年)に豊後国の龍王城へ移封となった。
寛永十年(1633年)九鬼家のお家騒動で九鬼3代久隆が鳥羽城から三田城に3万6千石で移封された。明治維新まで約260年間、九鬼家13代が続いた。