鷹取城 (たかとりじょう) (鷹取山城・高取城)
最寄地 福岡県田川郡福智町上野1698 2021.4.11
鷹取城 (たかとりじょう) (鷹取山城・高取城)
最寄地 福岡県田川郡福智町上野1698 2021.4.11
登城ルート
白雲ライン・鷹取ルート登り口
東尾根の道標
北虎口・石垣
主郭・標識
南側堀・虎口
鷹取城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高410m】
【感想】 直方市と福智町の境に位置する標高620mの鷹取山に築かれている。
山頂に主郭があり、北東と北西に虎口があり瓢箪の形状で、周囲を囲んで2郭がある。
2郭北東と北側に虎口があり石垣が残っている。またに南側に横堀状地形が見られ、虎口が見られた。
頂上からの眺望は素晴らしく福智町の街並みが眼下に望め、折しも主郭に植えられた水仙が凛として咲き誇っていた。
【案内】 県道62号線の終点に駐車場・トイレが用意されている[マップコード96 784 893*60]。通行止めの県道に行かず、「あがの温泉」(表記番地)前を進むと、3つのルートのある登り口に着く(地図)。
今回は「白雲ライン・鷹取ルート」の尾根伝いコースを選んだ。上野(あがの)コースが一般的だが帰りにここを通ったが、途中の沢登りはなかなかきつそうだった。
展望台を経て、尾根を登ると県道に出、そのまま約500m行くと反射板鉄塔があり、そこから左の遊歩道を登る(地図)。大栂林道を下方に見て登って行くと、上野コースと合流し、さらに登ると尾根に着く。右に行くと福智山で多数のハイカーが見られた。
左に行くと鷹取城跡方面で、鷹取山にも日曜日ということもあって、多くのハイカーが訪れていた。
【歴史】 最初に城を築いたのは、長谷川吉武というこの地に勢力を持った武士団の頭領であった。家臣の永井宗久に命じて築城したが、当時は砦に近いものであったと想像される。
その後、元弘三年/正慶二年(1333年)、小弐頼尚がこの地に再度築城した。
興国六年/康永四年、貞和元年(1345年)、小弐氏の家臣(分家)・筑紫統種が城主に任じられ、その後数代に渡り筑紫氏の居城となった。
戦国時代には豊後大友氏の家臣である森鎮実が城主となった。天文十一年(1542年)、大友氏から大内氏へ寝返った森鎮実は、大友義鎮の1万3千の大軍に攻められ落城、鎮実は降伏した。
鎮実はその後大友氏の家臣の鷹取城主として戦うが、天正八年(1580年)に猫城攻略に失敗するなど、目立った戦功は無い。
その後、豊臣秀吉の九州征伐があり、鷹取城を含む筑前の地は小早川隆景の領土となるが、その間の詳細は不明である。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いの功により筑前は黒田長政の領国となった。長政は福岡城に本城を築くが、「筑前六端城」の制を敷き、豊前との国境の6ヶ所に支城を築いた。その一城として鷹取城を再築し、城主には重臣・母里友信(太兵衛)が1万8000石で入った。
慶長十一年(1606年)に母里友信は益富城に移り、代わって手塚光重が城主となった。
慶長二十年(1615年)、一国一城令により廃城となった。