一ノ瀬城 (いちのせじょう) (豊田城・松尾山城・長谷山城)
最寄地 山口県下関市豊田町殿敷635 2019.5.10
一ノ瀬城 (いちのせじょう) (豊田城・松尾山城・長谷山城)
最寄地 山口県下関市豊田町殿敷635 2019.5.10
登城ルート
居館跡の碑・標識
北側登り口
北側堀切
4郭・3郭の切岸
3郭西の張出郭
2郭(奥が主郭北)
主郭
一ノ瀬城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高80m】
【感想】 豊田町大字殿敷と大字稲光の境の標高186.2mの城山に築かれている。
城域は南北に細長く、南の最高所に主郭があり、北に向かって鞍部の2郭、少し高い3郭と並んでいる。北に4郭があり、5m程下がって5郭があり、両端に堀切がある。
館跡碑の横に標識があるが、城山の方向を指しているだけで、北側の坂道や城跡には一切標識は無く、マーキングもない。
【案内】 県道65号線より北に表記番地東の市道を550m行った所に「豊田氏館跡」の石碑が建てられている[268 326 893*18](地図)。
居館跡は日野川に沿って東に300m程行った山裾にあり、「館ヶ浴の椿」がある。
城跡へは石碑から北に800m程行った峠の左側に坂道が見える[マップコード268 356 677*11](地図)。その坂にバックで駐車できる。
そこより作業道があり南へ約250m行き、下りになる手前から右の尾根に入り、尾根を南下すると、視界が開けその先に堀切がある。
少し登ると、堀切がありその上が4郭で南下すると3郭切岸がある。
3郭の西に張出郭があり、南に少し低くなった2郭がある。その西にも張出郭がある。
南端の主郭は日当りがよくシダ類が密生しあまりはっきりしない。
【歴史】 藤原道隆の流れを汲む輔長が、鎌倉時代、当地に土着し豊田(とよた)氏を名乗ったという。
その後、2代輔平、3代輔行らが一ノ瀬に居住し、豊田郡司となった。4代輔継は豊田惣領、5代種継が豊田大領、さらに7代種弘も豊田郡大領をつとめた。
12代豊田種長は南北朝時代、勢力を拡げ、観応の擾乱(1349~52年)で足利直冬は豊田氏を頼って一ノ瀬に滞在したという。
その後の豊田氏の動向は不明であるが、大内氏、厚東(ことう)氏と並ぶ防長の豪族であったと云われる。