黒田城 (くろだじょう)
最寄地 兵庫県西脇市黒田庄町黒田1330 2019.10.26
黒田城 (くろだじょう)
最寄地 兵庫県西脇市黒田庄町黒田1330 2019.10.26
参道入口
西側下段の前郭
主郭・標柱
東側下段の郭
背後の堀切
姥が懐
黒田城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高35m】
【感想】 西脇市黒田庄町黒田の天狗山から西に伸びた標高131mの丘陵先端に築かれている。黒田官兵衛の生誕地として有名である。
主郭には稲荷神社が祀られ、西下段に前郭、東下段に東郭があり、東側尾根に堀切が残っている。
【案内】 加古川線「本黒田駅」前の県道294号線より500m程東に行くと、表記番地南に駐車場がある[マップコード133 765 886*13]。
橋を渡ると稲荷神社参道があり、主郭に稲荷神社が祀られ、城跡標柱と説明板が建てられている。
北麓に「姥が懐」(黒田家屋敷跡)がある(地図)。
【歴史】 播磨国西部に勢力のあった赤松則村(円心)の弟円光は東播磨に勢力を伸ばそうと、現在の加西市河内町に城を築いた。
円光の長子・敦光は、別所五郎と名乗り別所氏の祖となり、三木城主別所長治まで続いた。
円光の次子・重光は、丹波との国境を守るべく黒田庄に来て黒田七郎重光と名乗り、黒田城黒田氏初代となった。
2代重勝は「明徳の乱」に参戦し、武功を挙げた。
5代重範は京都洛北や大永七年(1527年)には浦上追討に130騎を従え摂津まで駆け参じた。
元亀三年(1572年)石原掃部助・赤井五郎の連合軍に攻められ敗れ、9代治隆(重隆の長子)以下一族郎党全滅し、黒田城は落城した。
重隆の次子・孝隆(よしたか)は天文十五年(1546年)に黒田城で生まれ、姫路城主・小寺美濃守職隆(もとたか)の猶子(養子)となっており、御着城主小寺政職(まさたか)の家老になっていた。この小寺官兵衛孝隆が後に豊臣秀吉の参謀役として活躍した黒田官兵衛孝高(のちに如水)である。