高知城 (こうちじょう) (鷹城) (国の史跡・日本100名城84)
所在地 高知県高知市丸ノ内1‐2‐20 2010.9.10 2018.3.9
高知城 (こうちじょう) (鷹城) (国の史跡・日本100名城84)
所在地 高知県高知市丸ノ内1‐2‐20 2010.9.10 2018.3.9
馬場公園前の水堀
大手門
三の丸より天守
二の丸虎口石垣
二の丸より天守
現存天守・御殿
高知城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★★】
【案内・感想】 現存十二天守の一つで重要文化財(国宝)に指定されている。大高坂山(標高44.4m)上に築かれた梯郭式平山城で、山の南を流れる境川、北の江の口川をそれぞれ外堀として利用している。三の丸に高知県庁(表記番地) があり、その南に堀が残る。
東側の「高知公園」有料駐車場が利用できる[マップコード73 214 071*66]。
南に行くと追手門が現存し、虎口より登ってゆくと二の丸があり、山内一豊と妻・千代(見性院)の像、板垣退助の銅像が立てられている。
その南に本丸御殿、独立式望楼型四重六階天守がある。
昭和三十四年(1959年)6月18日、国の史跡に指定され、平成十九年(2007年)7月26日追加指定された。
平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(84番)に選定された。
【歴史】 南北朝時代、大高坂山には、高知城の前身として大高坂山城があったとされる。
天正十五年(1587年)、長宗我部元親は、豊臣秀吉の九州征伐従軍から帰国後、大高坂山に再び城を築き、翌年移った。
天正十九年(1591年)新たに浦戸城を築いて移り空城となった。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いにおいて元親の子・盛親は西軍に与して改易された。
代わって、山内一豊が掛川城から転入し、土佐国一国24万2千石を与えられ、浦戸城に入った。
慶長六年(1601年)八月、浦戸は城下町を開くには狭いため、一豊は百々綱家を総奉行に任じ、翌月より裏戸湾に面した地の利がある大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために境川・江の口川など川の治水工事に着手した。
慶長八年(1603年)、本丸と二の丸が完成。一豊は九月二十六日に入城した。この際に、真如寺の僧・在川(ざいせん)により、河中山城(こうちやまじょう)と改名された。
慶長十五年(1610年)、度重なる水害を被り、二代忠義は河中の名を忌み嫌い、竹林寺の僧・空鏡(くうきょう)によって高智山城と改名した。
この時より、後に城の名は省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。慶長十六年(1611年)、三の丸が竣工し、ここに高知城の縄張りが完成した。
享保十二年(1727年)、高知城下は大火に見舞われ、城は追手門以外の殆どが焼失した。現在見られる建造物の大半は、この後に再建されたものである。
享保十四年(1729年)八代豊敷(とよのぶ)は、深尾帯刀(ふかお たてわき)を普請奉行に任じ、城の再建に着手、寛延二年(1749年)天守ほか櫓・門などが完成、天守は小振りとなったが外観は焼失前の姿が復興された。
安政六年(1859年)二月二十六日、十五代藩主豊信(容堂)が安政の大獄で隠居処分となったため、豊範(とよのり)が家督を継承し十六代藩主となった。
しかし文久二年(1862年)に豊信の隠居が解かれると、実権は豊信に握られることとなり、豊範の主体性は薄かったが、同年、朝廷から京都警護の内勅を受けた。
豊範は明治二年(1869年)には薩摩藩、長州藩などと共に連名で版籍奉還を行なった。
明治六年(1873年)廃城令に伴い、高知公園となった。この際に、現存建造物以外の建造物が破却された。
昭和九年(1934年)1月30日、天守など15棟の建造物が国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定された。
昭和二十年(1945年)高知大空襲で被害を受けた。