小谷城 (おだにじょう) (国の史跡・日本100名城49)
所在地 滋賀県長浜市湖北町伊部 2013.10.15
小谷城 (おだにじょう) (国の史跡・日本100名城49)
所在地 滋賀県長浜市湖北町伊部 2013.10.15
登城ルート
出丸
黒金門跡
桜馬場跡
大広間跡
本丸跡・石垣
大堀切
中丸跡
小谷城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高250m】
【案内・感想】 日本五代山城の一つである。標高494.6mの小谷山(伊部山)から南東の比高約250mの尾根に本丸曲輪があり、南に階段状に並んで築かれている。
国道365号線より北に150mほど行った「小谷城址ガイド館」北に駐車場があり、「小谷城阯」の石碑が建てられている[マップコード460 093 511*10](地図)。
そこより徒歩で尾根伝いの道を約2㎞登ると「出丸」、「金吾丸」の曲輪がある。更に登ると、「番所跡」、「御茶屋跡」、「馬洗池・御馬屋跡」が並び「首据石」がある。
「桜馬場」の東より「黒金門跡」の石段を登り「大広間跡」と呼ばれる曲輪に着く。その北に「赤尾屋敷跡」の曲輪があり、一段高い曲輪が「本丸」で土塁があり南面に石垣が残っている。本丸の北西に大堀切で隔てた三段からなる「中丸」の曲輪と「刀洗池」がある。
本丸より一段下がった西に「帯曲輪」、「御局屋敷跡」がある。中丸の北に「京極丸」、「小丸」、「山王丸」、「月所丸」そして北西に頂上の小谷山で「大嶽」と呼ばれる支城に至る(本丸より約1㎞)。土塁は意外に少ない。途中より振り返ると、琵琶湖や田園風景が望める。
昭和十二年(1937年)4月17日、国の史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(49番)に選定された。
【歴史】 永正十三年(1516年)戦国大名浅井亮政(すけまさ)により築城され、浅井氏三代(亮政・久政・長政)の居城となった。
堅固な山城として知られたが、元亀元年(1570年)六月の小谷城から南に5㎞ほどの地点で繰り広げられた姉川の戦いでは浅井長政・朝倉義景連合軍と織田信長・徳川家康連合軍が激突し、織田軍が勝利した。
しかし織田軍はすぐに小谷城を攻めず、横山城を築き様子を窺っていたが、朝倉義景を討ち滅ぼしたのち、天正元年(1573年)八月八日より小谷城攻略を開始した。
織田信長に、大嶽城、京極丸を攻め落とされ、小丸の浅井久政と本丸の浅井長政を分断し、八月二十七日久政が小丸で自刃、翌日本丸で長政が自刃し浅井氏は滅亡した。長政とお市の方との悲劇の舞台として語られることが多い城である。
その後、北近江の拠点は秀吉により長浜城に移されたために廃城となった。
長政とお市の方との間の三人の姫は長じて長女の茶々は秀吉の側室・淀君として、次女の初子は大津城主・京極高次に嫁ぎ、三女のお江は徳川二代将軍秀忠の夫人になって家光・忠長・千姫・東福門院(後水尾天皇中宮)らを生み、何れも歴史のひとこまを飾り、名を遺した。