馬ヶ岳城 (うまがだけじょう) (市の史跡)
最寄地 福岡県行橋市大谷1461 2015.5.14
馬ヶ岳城 (うまがだけじょう) (市の史跡)
最寄地 福岡県行橋市大谷1461 2015.5.14
登城ルート
登り口
堀道
二の丸
堀切
本丸・新田氏表忠碑
馬ヶ岳城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高200m】
【案内・感想】 県道58号線「大谷」交差点より、南に宅地の間の細い道を約600m行った所に登山口がある[マップコード96 653 897*81]。
約300m登ると遊歩道が大きくカーブする地点に竪堀がある。さらに200mほど登ると500mに亘って延びる土塁線に出る。
展望台を下って、登山口より約1150m登った東側の山頂上に二の丸がある(地図)。
下って上りにかかる地点に堀切があり、約300mで比高約200mの西側の山頂上に二段になった本丸がある。
本丸には「新田氏表忠之碑」(昭和三年)が建てられている。東山と西山からなり、どちらからも京都平野を眼下に一望できる。
平成二十年11月1日、行橋市の史跡に指定された。
【歴史】 天慶五年(942年)清和源氏の祖とされる源経基によって築かれた。
後に橘公頼の一族が城主となった。その後、橘氏が続いたが、仁平元年(1151年)に九州に流されていた源為朝の攻撃を受け、橘頼行は自害して草野氏が城主となった。
文治元年(1185年)、緒方惟義の一族、緒方九郎が平家に反旗を翻して籠城した。その後は少弐氏の支配となった。
南北朝時代に南朝方の菊池武重の攻撃によって再び落城した。
1340年(延元五年/暦応三年)新田義基が入城し、義氏・義高の3代にわたって支配した。そして新田義高の代に菊池氏の攻撃によってまたもや落城した。
戦国時代、豊前地域をめぐって少弐氏、大友氏、大内氏、毛利氏等の群雄が覇を競い、馬ヶ岳城は戦略上の重要拠点として攻防の舞台となった。
天正六年(1578年)に長野氏(助盛、義俊、種信等諸説有)が馬ヶ岳城に入り居城とした。
天正十四年(1588年)豊富秀吉が島津氏征討を決めると、馬ヶ岳城主長野三郎左衛門は秀吉方に降った。
翌天正十五年(1587年)遠征軍を率いて自ら九州に上陸した秀吉は小倉城を経て三月二十九日馬ヶ岳城に入った。
九州平定後、天正十五年(1587年)七月、豊前6郡を与えられた黒田孝高(官兵衛・如水)が、中津城に移るまで居城とした。
慶長五年(1600年)黒田氏は筑前に移り、豊前は細川忠興の所領となった。
その後、慶長二十年(1615年)六月の一国一城令によって廃城となった。