鳥屋城 (とやじょう)
最寄地 大分県豊後大野市朝地町梨小498 2019.3.4
鳥屋城 (とやじょう)
最寄地 大分県豊後大野市朝地町梨小498 2019.3.4
登城ルート
登り口・説明板
堀切
本丸・土塁
2の丸
城山三角点・物見
鳥屋城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高160m】
【感想】 豊後大野市朝地町鳥田にある標高774mの城山に築かれている。
城域は南東から北西に300m×80mと細長く、本丸の南から東に高土塁が残り、南に南の丸がある。北西に2の丸、石積みのある曲輪、3の丸が並んでいる。北東の城山頂上には三角点があり物見櫓があったという。
【案内】 国道442号線の大きくカーブした所に、「鳥屋城跡」の案内板がある。そこより東に約1.3km行き大きく右折して南に約450m行くと、右側に登り口があり、看板が建てられ、駐車できる[マップコード237 488 757*86](地図)。
そこから約1000mの遊歩道があり、各所に「あと○00m」の標識が建てられ迷う事はない。
【歴史】 建久三年(1192年)鎌倉幕府が開かれ、西遷御家人大友氏初代能直の6男時景(景直)は、一萬田に居館を置き一萬田氏を称し、鳥屋城や小牟礼城を築いたと云われる。
貞治元年(1362年)菊地武光は高崎城攻めの帰路、志賀氏房の籠もる鳥屋城を囲み、近地宗房が戦死、他に2人が討死、負傷者14人と志賀文書にあり落城した。
天正十四年(1586年)島津義弘の2万と島津家久の2万が豊後へ侵攻し、これに対し四国の連合軍が援軍として着陣したが、戸次川の戦いで大敗、この時の鳥屋城主一萬田鎮実は島津軍に内通し、撤退後は大友宗麟の命で叔父の鑑之と従弟の統政の3名は切腹した。
その後の城主は宗像鎮続となり、400年余栄えた一萬田氏は滅びた。
文禄元年(1592年)豊臣秀吉の朝鮮出兵で大友吉統(よしむね)は敵前逃亡罪で豊後国を没収され、鳥屋城主鎮続も領地を失った。
その後、慶長五年(1600年)石垣原の戦いで、鎮続は大友軍の左翼の大将を勤め戦死した。