松山城 (まつやまじょう)
最寄地 福岡県京都郡苅田町松山1156 2015.5.14
松山城 (まつやまじょう)
最寄地 福岡県京都郡苅田町松山1156 2015.5.14
登城ルート
駐車場・遠景
南側横堀
2郭・土塁
腰郭
石垣・石段
主郭
松山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高100m】
【案内・感想】 表記番地の手前に駐車場が用意されている[マップコード16 178 857*43](地図)。
東に60mほど行き西に登ると比高約100m山頂に主郭跡がある。主郭跡からは北九州空港や工場地帯など一望できる。
主郭は北、西、南の三方を横空堀で囲まれ、東に腰郭があり石垣、石段の下段に2郭があり南東に門跡がある。その東に3郭があり一部竹林となっている。
3郭の東に、かって小城と呼ばれる遺跡があったが土取りのため消滅した。
平成五年(1993年)12月22日、苅田町の史跡に指定された。
【歴史】 天平十二年(740年)太宰権師・藤原広嗣が朝廷に反旗を翻した際(藤原広嗣の乱)に築いたとされる。
天慶三年(940年)、藤原純友の乱に際し神田光員の居城となった。その後神田氏の居城であったが、保元二年(1157年)平康盛によって滅ぼされ、康頼の三男・平信盛が居城とした。
文治元年(1185年)信盛の子・平吉盛は壇ノ浦の戦いに敗北し、入水自殺を遂げた。
建久七年(1196年)頃には、豊前国に下向してきた宇都宮信房が支配した。ここでも松山城は激しい攻防の舞台となり、長野氏当主・長野直盛が松山城を支配した。
1336年(延元元年/建武三年)、足利尊氏に従った少弐頼尚は松山城を攻略し、その子・少弐頼房を城主とした。
周防国大内氏が北九州地方へ勢力を伸ばすと、豊前国の要衝として重視し、重臣であった杉興信を守護代に任じ、松山城城主とした。
応永五年(1398年)大友氏鑑が大友親世に反乱を起こした際、氏鑑方の攻撃によって落城、城代の杉光治は討死した。
大内氏は松山城奪回後、天野顕義が入城し、その後、討死した光治の兄・杉弘信が入った。その後は杉氏が在城して続き、天文二十年(1551年)迄その支配が続いた。
陶隆房の謀反(大寧寺の変)で大内氏当主・大内義隆は自害、弘治二年(1556年)毛利氏に帰順した松山城主で豊前守護代の杉重吉が大友義鎮配下・田原親宏の攻撃によって討死、松山城は落城した。
防長経略によって大内領を併呑した中国地方の雄・毛利元就は大内領であった北九州への侵攻を開始、豊前国の要衝であった松山城を攻略して、勇将・天野隆重、杉氏の一族・杉重良を入れた。
永禄五年(1562年)に松山城は大友氏の攻撃を受けるが、翌永禄六年(1563年)に、室町幕府将軍足利義輝の斡旋によって、毛利氏と大友氏の間に和睦が成り、松山城は大友氏に引き渡された。
その後は、長野祐盛が城主となったが、毛利氏や大友氏が京都郡に侵攻するに及び、度々従属先を変え続けた。 そのため、永禄末期から天正年間にかけて大友氏、毛利氏から大規模な討伐を受け、長野氏は零落した。
また、天正七年(1579年)に杉重良が毛利氏に反旗を翻して、松山城を退去して簑島に入った。
重良は高橋元種の攻撃を受けて討死した。嫡男の杉元良は毛利氏家臣として続いた。
天正九年(1581年)、毛利方であった長野祐盛が松山城に籠もり、同じ毛利方の高橋元種を攻撃する事態が起きた。
天正十四年(1586年)、豊富秀吉は九州征伐を開始し、主力であった毛利軍が松山に入ると、近隣の豪族である城井朝房や長野氏等がこぞって帰順した。松山城には毛利氏家臣・仁保元豊や湯浅将宗が入った。
島津氏降伏後、松山城は黒田孝高の所領となり、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いの後に、豊前国を領した細川忠興の所領となった。
慶長十一年(1606年)廃城となった。