玖珠城 (くすじょう) (伐株山城・高勝寺城)
最寄地 大分県玖珠郡玖珠町山田1464 2015.5.12
玖珠城 (くすじょう) (伐株山城・高勝寺城)
最寄地 大分県玖珠郡玖珠町山田1464 2015.5.12
登城ルート(赤は1・2/緑は3/水は4/青は5/茶は6/紫は7)
第3土塁
第1・2土塁
第4土塁・伐株山供養碑
第5土塁
第7土塁
南尾根の堀切
玖珠城 第1土塁(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 表記番地より南西に1.1km 行き、三叉路を北に1.2km 登った標高685m伐株山(きりかぶやま)頂上付近に駐車場がある[マップコード269 331 295*47] (地図)。
北に「第3土塁」(地図)、その北に「第1土塁」「第2土塁」(地図)がある。南の比高10m余のなだらかな頂上へ行く道の東に「第4土塁」(地図)、「第5土塁」(地図)がある。「第4土塁」には戦死者の供養碑が建てられている。
鉄塔のある付近に「第6土塁」(地図)、「第7土塁」(地図)があり、その南「針の耳」と呼ばれる尾根道の始まる地点に堀切がある。
伐株山城跡は、標高685mの伐株山頂上にあり玖珠盆地を始め遠くは英彦山まで一望でき、盆地から見ると切株のように見える。
【発掘調査】 昭和五十三年(1978年)には大分県文化課の協力のもと、玖珠町教育委員会により発掘調査が行われた。
その結果13世紀と16世紀を中心とする遺物が出土し、土塁を伴う七つの郭跡や畝状竪堀、横堀が確認された。
【歴史】 南北朝時代「高勝寺城」「玖珠城」と呼ばれ、建武三年(1336年)三月、足利尊氏に反旗を翻した高勝寺の僧徒や小田氏・魚返氏たちが、この城に立て籠もった。
これに対して北朝方は一色頼行を大将として野上氏や綾垣氏、帆足氏などが加わり、郷土の武士たちは双方に分れて戦った。戦は三月二十四日に始まり、8ヶ月、尊氏軍と凄まじい攻防戦が行われた。
その後、応安六年(1373年)に小田氏が南朝方として立て籠もり、さらに永正十四年(1517年)には「朽網(くたみ)親満の乱」に際しても、合戦の場となった。
天正十四年(1586年)島津軍の侵功の際には、中嶋氏や魚返氏などの玖珠郡衆は、その一族600名と籠城した。
天然の要害二守られ、島津軍は攻めあぐんだが、同年十二月に城内から島津方に内通するものが出て、城に火をかけられついに落城した。それ以後山城として使用されることなく、長い歴史の幕を閉じた。