竹迫城 (たかばじょう) (合志城・上庄城・蛇尾城)
所在地 熊本県合志市上庄 2014.5.9
竹迫城 (たかばじょう) (合志城・上庄城・蛇尾城)
所在地 熊本県合志市上庄 2014.5.9
登城ルート(緑線は車道)
池・竹迫城跡公園
南側入口・城跡碑
合志城阯碑
横堀・土塁
横堀・土塁
竹迫城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道138号線より東に行くと、城跡北側に池があり、木橋で南の 「竹迫城跡公園」と結ばれている。
駐車場は公園南側より入った所にある[マップコード 29 830 351*03 ](地図)。
本丸跡には「合志城阯」(こうしじょうし)の碑が建てられ、横堀や土塁があり、本丸を取り巻くように帯曲輪がある。
城の縄張りは東西1,800m×南北1,400mとされる。中央の最高所に位置する本丸跡は楕円形(50m×30m)の平坦地となっている。
合志市の史跡になっている。『合志市教育委員会説明板』より。
【歴史】 建久年間(1190~99年)合志軍の地頭となった中原師員(もろかず・竹迫氏初代)によって築城されたと云われ、永正七年(1510年)に十五代竹迫公種(久種)が大友氏に従い豊後に移るまでの約320年間、竹迫氏の本城であった。
永正八年(1511年)合志高岑(たかみね)が池上城(泗水町)から竹迫城に移り合志城と改め、五代約80年間城主を務めた。
この竹迫氏・合志氏時代の約400年間、竹迫城は肥後北部の政治・軍事上の拠点として重要な位置にあった。
そのため南北朝時代には菊池氏・阿蘇氏と対立、戦国時代には大友氏・龍造寺氏・島津氏の争点となった。
天文二十年(1551年)大友義鎮率いる豊後勢が阿蘇から合志城に侵攻し、激戦の末、大友氏の幕下になった。
天正六年(1578年)肥前の龍造寺軍が大挙して襲来したが、合志隆重はよく戦い守り抜いた。
天正十三年(1585年)九月七日に薩摩の島津氏の配下新納久饒(ひさあつ)及び川上忠堅の侵攻により、合志隆重が迎え撃ったが敗れ、開城した。
天正十五年(1587年)豊富秀吉の九州征伐を受け、島津氏が城を焼却し薩摩へ撤退した。
平成二年(1990年)に土塁や空堀を残して「竹迫城跡公園」として公園化された。