真玉城 (またまじょう) (真玉氏館) (県の史跡)
所在地 大分県豊後高田市西真玉3237 2015.5.13
真玉城 (またまじょう) (真玉氏館) (県の史跡)
所在地 大分県豊後高田市西真玉3237 2015.5.13
真玉寺・水堀
グランド跡西空堀・土塁
真玉分校跡地の碑
グランド跡北の土塁
土塁北の堀
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 真玉寺(表記番地)の周囲に水堀が残り、境内に老朽化した説明板が建てられている[マップコード459 642 732*45] 。
北の高田高校真玉分校グランド跡地の北から西にかけて土塁が現存し(地図)、その北に水堀があり民家や畑のある外郭となっている。
昭和六十年(1985年)3月29日、大分県の史跡に指定されている。
【歴史】 1352年(南朝:正平七年、北朝:文和元年)十一月に杵築城主木付頼直の弟木付五郎重実が真玉荘を分知され、この地に築城、以後真玉氏代々の居城となった。
真玉寺は延文二年(1357年)真玉五郎重実により寺の原に創建された。真玉氏は滅亡後の弘化三年(1847年)寺の原より現在地に移転した。
天正十八年(1590年)、9代真玉統寛(むねひろ)は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣する途中、家臣山田兼佐の謀反によって殺された。
この内乱によって238年続いた真玉氏は滅亡した。