牛岐城 (うしきじょう) (富岡城・浮亀城)
所在地 徳島県阿南市富岡町トノ町24‐3 2014.9.14
牛岐城 (うしきじょう) (富岡城・浮亀城)
所在地 徳島県阿南市富岡町トノ町24‐3 2014.9.14
復元門
本丸台地
牛岐城趾碑
保存石垣
牛岐城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 桑野川の南岸、県道23号線冨岡町交差点南西の高台にあり、「牛岐城趾館」(表記番地)に専用駐車場(西側の道路より入る)が設置されている[マップコード217 619 096*80] 。公園となっており、北側の一方通行道路に面して復元門がある。
中央の高台の階段を登った右手に「牛岐城趾」の石碑があり、牛岐城趾館の史跡保存スペースに石垣遺構が保存され、見学できる。三階は展望室で、桑野川や阿南市街が一望できる。
【歴史】 冨岡の地はかって牛岐といわれ、至徳年間(1384~87年)に阿波守護細川氏の家臣新開実重が阿波国に入った際に築城したと云われる。
以後、新開氏が領主となっていたが、天正十年(1582年)土佐の長宗我部元親は四国平定の野望を抱き、阿波国を攻めた。
時の城主新開遠江守実綱(道善)を丈六寺に於いて謀殺し、これにより新開氏は滅亡し、香宗我部親泰が入った。
天正十三年(1585年)豊富秀吉の四国征伐に際し、蜂須賀家政(小六)が阿波国に入り賀島主水政慶(まさよし)に阿波南方の総押えとして1万石を与え城代とした。
政慶は入城後、牛岐城を阿波九城(一宮城・撫養城・西条城・川島城・大西城・海部城・牛岐城・脇城・仁宇城)の一つとして整備し、牛岐の地を富岡と改名しため冨岡城と呼ばれるようになった。
しかし、慶長二十年(1615年)の徳川幕府の一国一城令により、徳島城以外の城は破却された。