佐用城 (さようじょう) (福原城)
最寄地 兵庫県佐用郡佐用町佐用1573 2019.10.25
佐用城 (さようじょう) (福原城)
最寄地 兵庫県佐用郡佐用町佐用1573 2019.10.25
説明板
南側城塁
福原霊社
主郭
東側空堀
佐用城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 佐用川右岸の段丘上に築かれており、利神城の南6kmに位置している。
西側に空堀があり、土塁上に福原霊社が祀られ、東側に広い主郭がある。高さ3m程の城塁が見られ、東側にも空堀が残っている。
【案内】 国道373号線に「←佐用城跡」の標識があり[マップコード233 597 049*28]、西に行った表記番地先に城跡がある。
西側の土塁上には落城時の城主・福原則尚の首級を祀るため、土地の人々によって造営された福原霊社(頭様こうべさま)が鎮座している。その前に辞世の歌と説明板が建てられている。
【歴史】 鎌倉時代、元弘三年(1331年)四月二十八日、淀の久我畷の戦いに於いて、鎌倉方の総大将名越尾張守高家をただ一箭に討ち取った佐用兵庫介範家により築城されたと伝えられる。
その後、赤松三十六家衆の一人福原氏がこの城を継ぎ、福原城とも云われる。
戦国時代末期、東西勢力が拮抗する中で、東の利神城、西の上月城、南の高倉城と共に赤松氏の城郭群を形成していたが、天正五年(1577年)に羽柴秀吉が黒田孝高、竹中重治らの諸将に攻めさせ、城主の福原籐馬允則尚は城に自ら火を放ち菩提寺の円福寺にて自刃して城は落城した。