吉田郡山城 (こおりやまじょう) (郡山城) (国の史跡・日本100名城72)
最寄地 広島県安芸高田市吉田町吉田278-1 2013.10.7
吉田郡山城 (こおりやまじょう) (郡山城) (国の史跡・日本100名城72)
最寄地 広島県安芸高田市吉田町吉田278-1 2013.10.7
登城ルート(緑線は車道)
入口・城阯碑・説明板
三の丸石垣
三の丸跡
二の丸跡・土塁
本丸跡・櫓台
尾崎丸堀切
吉田郡山城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高200m】
【案内・感想】 県道6号線の東に在る「安芸高田市歴史民俗博物館」(表記番地)南より入り、東に行った山麓に駐車場が用意されている[マップコード244 009 295*21](地図)。
そこから遊歩道を西に約200m行くと毛利元就の墓がある。
そこから東に折れ石畳の道を約500m登ってゆくと、一番広い三の丸に着く。崩れかかった石垣があり、四段に分かれている。段を重ね二の丸、本丸があり土塁、空堀がある。
本丸の北一段高いところが天守台である。それぞれ表示板が建てられ、本丸は標高402m(比高約200m)の山頂である。厩の壇、勢溜の壇、堀切で南東の旧本城と区画された尾崎丸などの曲輪がある。東に回って下山する途中、毛利隆元の墓があり、駐車場に着く。
昭和十五年(1940年)8月30日、国の史跡に指定され、昭和六十三年(1988年)2月16日「毛利氏城跡 多治比猿掛城跡 郡山城跡」として追加指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(72番)に選定された。
【歴史】 毛利氏が吉田荘の地頭職として下向した建武三年(1336年)に毛利時親が、郡山南東の尾根に築城し居城とした。
それから12代目にあたる毛利元就が、大永三年(1523年)家督を相続するまでの吉田郡山城は大きな変化はなかったが、元就は国人領主の盟主から戦国大名への脱皮を図り、郡山全体に城域を拡張した。城主元就だけでなく、嫡子隆元や一部の重臣たちの館も設けられた。
天文九年(1540年)から翌年まで続いた吉田郡山城の戦いでは、尼子詮久(後の晴久)率いる二万の軍に包囲されるが、吉田郡山城には軍勢2400に農民などを加えて8000余りが籠城したという。
士気の高い毛利勢は尼子勢を翻弄し、常に主導権を握り、陶隆房率いる大内氏の援軍が到着するまで持ちこたえ、尼子勢の撃退に成功した。
城は毛利氏の勢力拡大と共に拡張・整備され、元就の孫の毛利輝元の頃には石垣なども使った近代的な城郭へと変貌した。天守は元就時代にはなかったが、見張り用の櫓が本丸に建てられた。
毛利氏が豊臣大名になると、山間の盆地に位置する吉田郡山城は交通の便悪く、本城の移転が計画され、天正十九年(1591年)に広島城がほぼ完成すると、吉田郡山城は毛利氏の本拠としての役割を終え、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住した。
寛永十四年(1637年)の島原の乱の後にキリシタンの決起を恐れた江戸幕府によって、石垣や堀などが破却された。
幕末には広島藩の支藩として広島新田藩が成立し、文久三年(1863年)に吉田郡山城の麓部分に「吉田陣屋」が置かれた。
明治二年(1869年)に廃藩となり、陣屋の建物は廃された。