海部城 (かいふじょう) (鞆城)(ともじょう)
最寄地 徳島県海部郡海陽町奥浦堤ノ外32 2020.12.7
海部城 (かいふじょう) (鞆城)(ともじょう)
最寄地 徳島県海部郡海陽町奥浦堤ノ外32 2020.12.7
登城ルート
説明板
登り口標柱
3郭
2郭
本丸・石垣付き土塁
南3段
大堀切
海部城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m】
【感想】 海部川が太平洋に注ぐ河口右岸の標高約49mの独立丘陵に築かれている。
本丸には逆コの字形の土塁があり側面に石垣が見られ、北に3段、南に4段の郭がよく残っている。
北端は判形人屋敷跡と堀切で隔てられ、一方南端には鉄塔の山と大堀切で隔てられている。
【案内】 国道55号線の「新海部川橋」を渡ってすぐ左折して行った旧海部中学校(表記番地)体育館先に駐車場が用意されている[マップコード427 343 067*50]。
駐車場横に城跡碑と説明板が建てられ、「判形人屋敷跡」との堀から登って行くと、4郭があり南に堀と石積が残っている。
南に登ると3郭、2郭を経て遊歩道があり、本丸に着く。
本丸には石垣を施された土塁があり、本丸標柱が建てられている。
南に4段の郭があり、南端に大堀切とそれに続く竪堀が残っている。
昭和五十一年(1976年)1月20日、海陽町の史跡に指定された。
【歴史】 築城時期は不明だが、室町時代、戦国時代の領主海部氏の居城であった。
『阿波志』等には、永禄・元亀年間(1558~73年)の城主として海部左近将監友光の名が見える。
天正四年(1576年)頃、長宗我部元親の阿波侵攻によって海部城は落城した。
天正十三年(1585年)蜂須賀氏の阿波入国後、海部城は阿波九城の一つとなり改修が行われた。
その後、元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城になった。最後の城番は益田豊後守長行であった。