志知城 (しちじょう)
最寄地 兵庫県南あわじ市志知松本281−1 2020.2.2
志知城 (しちじょう)
最寄地 兵庫県南あわじ市志知松本281−1 2020.2.2
登城ルート(緑線は車道)
馬場跡・伊勢神社一の鳥居を左へ
南側入口・堀
2の丸
本丸
城跡碑
配置図
志知城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 南あわじ市志知にある山路川左岸の90m四方ほどの平城で周囲に水堀が残っている。南東側が2の丸で本丸西側に2基の城址碑、説明板が建てられている。
本丸の中央部分だけ整地され西部分と東部分は竹藪となっており、北西から下ると北側の郭に出られる。遺構はそれなりに残っているが、放置され鬱蒼としている。
【案内】 山路川を渡った県道477号線西より南へ狭い道路を約130m行くと「松本構造改善センター」(表記番地)や伊勢神社があり、そこに駐車できる[マップコード406 464 659*18]。周辺の道は極端に狭く駐車余地はない。
伊勢神社は野口宗長により建立されている。そこから西へ馬場を100m行くと一の鳥居があり、左の畦道を南下して右に曲がると入口の橋が架けられている。
【歴史】 鎌倉時代初め、菅和泉守道忠によって築かれたと云われる。
『太平記』に、南北朝初期に志知の武士が宮方(南朝)に従い淡路西浦から京都へ出陣したことが記されており、その武士集団の拠点が志知城であると云われている。
南北朝時代以後は、菅実正は足利尊氏に従い、淡路守護となった細川師氏にも従ったという。菅氏は淡路国三原郡野口村を拠点とし、のちに、野口氏を称した。
室町時代末期は三好氏に味方した。天正四年(1576年)志知城主・野口孫五郎長宗は伊勢神社本殿を建立した。
その後、天正九年(1581年)野口孫五郎長宗のとき、淡路に侵攻した羽柴秀吉の軍勢により、志知城は降伏・開城した。秀吉は家臣の黒田官兵衛孝高を志知城に置いて守らせた。
天正十三年(1585年)加藤左馬助茂勝(後に嘉明)が1万5千石を領して志知城に入り、留守居役が家老堀部市右衛門と云われる。
志知城は瀬戸内海に出る淡路水軍の要衝であった。豊臣秀吉の九州遠征(天正十四~十五)、小田原征伐(天正十八年)、朝鮮出兵(文禄元年に始まる)には水軍を編成して出陣した。
文禄四年(1595年)加藤嘉明は6万石に加増され、伊予国松前城に転封となると、秀吉の直轄領となって代官(石川紀伊守光遠・三宅丹波守)が置かれたが、川口の叶堂城を築き、志知城は廃城となった。