手取城 (てどりじょう)
最寄地 和歌山県日高川町和佐1652 2018.10.21
手取城 (てどりじょう)
最寄地 和歌山県日高川町和佐1652 2018.10.21
登城ルート(緑線は車道)
道標・説明板
2の丸
西の丸・のろし台
本丸
本丸北の堀切
本丸北3条目の堀切
手取城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高130m】
【感想】 日高川下流の標高171mの城山に築かれ、4つの主要郭から構成されている。
2の丸の石垣や、東の丸の土塁、西の丸の堀切、のろし台などよく残っている。また本丸北の竪堀、尾根にある小郭と3条の堀切など見所は多い。
【案内】 県道191号線の表記番地より左折、約700m東に行った地点に手取城入口の道標が建てられている[マップコード302 536 531*30](地図)。
舗装された幅2m程の道を400mほど行くと駐車場が用意されている。その先はカーブが多く徒歩が良い。
【歴史】 南北朝時代、日高郡東部に鶴ヶ城を築いて大和国から日高川の上流地域にかけて支配していた玉置大宣が、日高川下流の山崎城主川上則秋を攻め滅ぼし、山崎城の東方の城山に手取城を築き、和佐玉置氏と称された。
その後、和佐玉置氏は、亀山城の湯川氏とともに日高地方を二分する勢力を築いて代々続いた。
天正十三年(1585年)、羽柴秀吉の紀州侵攻に対し、亀山城主湯川直春は娘婿である手取城主玉置直和に対して同調して秀吉と対決することを申し入れたが、玉置氏はこれに従わなかった。
玉置勢は秀吉軍に呼応し、湯川氏の所領である小松原(現、御坊市)に放火したのを皮切りに、三月二十一日には湯川勢8千人と玉置勢千600人が坂の瀬において合戦し、玉置勢は83人が討死して手取城に籠城した。3日間の攻防が続いた所に秀吉軍の仙石秀久・小西行長が数百艘の兵船と大軍を率いて押し寄せたため、湯川直春は急いで2百余名で手取城を攻めて焼き払いにかかり、城は落とされて玉置直和は落ち延びた。
紀州が秀吉に平定されると直和と息子の永直は新たに紀伊の領主となった羽柴秀長に臣従し、所領は減ったとはいえ手取城主に返り咲けた。
だが後に慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に加担したため、戦後処理で改易となり、手取城は廃城となった。