安土城 (あづちじょう) (国の特別史跡・日本100名城51)
所在地 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 2013.9.7
安土城 (あづちじょう) (国の特別史跡・日本100名城51)
所在地 滋賀県近江八幡市安土町下豊浦 2013.9.7
大手石段
門跡石垣
二の丸石段
二の丸跡
本丸跡
本丸天守台・礎石
総見寺本堂跡
安土城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高90m】
【感想】 琵琶湖東岸の標高198mの安土山に築かれた、織田信長の居城であった。石段、石垣、天守台礎石などがよく残っている。
【案内】 県道2号線「安土城址前」交差点の北、安土城跡駐車場が用意されている[マップコード67 827 783*71](地図)より北にある石段の大手道を登る。
大手道に階段状の石垣が築かれ、途中左手に羽柴秀吉邸跡の曲輪がある。少し登ると右手に総見寺が建っている。
二の丸虎口の手前の杉の間に「織田信澄邸跡」「森蘭丸邸跡」がある。虎口は石垣で造られ黒金門跡が残る。
二の丸の奥に柵で囲われた信長廟がある。天守台の手前に本丸に建物の礎石が残る。比高約90mの安土山山頂の天守台石垣の中にも礎石が残っている。
「織田信雄公四代供養塔」の初代信雄・4代信武・3代長頼・2代高長の石塔四基がある。東に下山すると草地に総見寺本堂跡があり、三重塔、仁王門が残っている。
往事の天守は五重六階地下一階で最上階は金色、下階は朱色の八角堂となっており、内部は黒漆塗り、そして華麗な障壁画で飾られていたとされる。
安土城天守(宮上茂隆復元案)を模して伊勢・安土桃山文化村(伊勢市二見町三津1201-1:地図)に天守風建物が建てられている。
大正十五年(1926年)10月20日、国の史跡に指定され、昭和二十七年(1952年)3月29日、国の特別史跡に指定された。平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(51番)に選定された。
【歴史】 天正四年(1576年)一月、織田信長は総普請奉行に丹羽長秀を据え、近江守護六角氏の居城観音寺城の支城のあった安土山に築城を開始した。
天正七年(1579年)五月、完成した天守に信長が移り住む。同年頃に、落雷により本丸が焼失したと、ルイス・フロイスが著書『日本史』に記している。
天正十年(1582年) 五月十五日には明智光秀が饗応役となり徳川家康の接待が行われた。
旧暦六月二日の京都本能寺に信長が光秀の謀反により横死した「本能寺の変」の際は蒲生賢秀が留守居役で在城していたが、信長の横死後、蒲生賢秀・氏郷父子は本拠地日野城に信長の妻子などを安土から移動させ退去した。
山崎の戦いの後、明智秀満率いる明智軍の退却後、天守とその周辺建物(主に本丸)を焼失した。
本能寺の変以降もしばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清州会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。
しかし、秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、天正十三年(1585年)廃城されたと伝わっている。